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Title 琉球経済史の諸問題 Author(s) 大井, 浩太郎 Citation 沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 1(1): 31-123 Issue Date 1975-03-31 URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/6641 Rights 沖縄大学法経学部経済学科

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Title 琉球経済史の諸問題

Author(s) 大井, 浩太郎

Citation 沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 1(1): 31-123

Issue Date 1975-03-31

URL http://hdl.handle.net/20.500.12001/6641

Rights 沖縄大学法経学部経済学科

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琉球経済史の諸問題

大井浩太郎

T/zeProb形WBC。〃cezwz〃9t/zeHZStorZ/●

○丁H〃た卯ECO〃O'7W

KotaroOoi

目次

第1章序説……・…・……………………………..…………..…52

第2章土地制度・………………………・…・…・…………・・……46

第1節地割制度..……………………………………………46

第2節検地………………・…・………………………………・57

第5節斗桝.J……….…………………………………………72

第4節原山勝負……………………・……………・………・…76

第5章資本主義経済の発達・……………………….…、………81

第1節商業資本の流入・………・……………..…….…J、56..'81

第2節土地整理………………………………………………86

第5節、通貨制度の変遷…………・…………………..………102

第4節資本主義経済の発達…………….….….……………109

31

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第1章序説

沖縄の経済社会を歴史的に瞥見すると、まず文献に見られる限りでは南西諸

島(沖縄を含めて)が、大和朝廷と接触した最初は615年(日本書記)で、

その年の3月被玖人が3人、5月に7人、7月に20人都合30人が帰化して

いる。また阿麻弥は683年に、度感は698年に信覚と球美が714年帰化

している。その間702年には多{執が命に従わなかったので、大和朝廷は武力

で制圧した上で、戸籍を作ったり、役人を置いたりし、707年の7月には使

者を太宰府に派遣して、南島人に位を授けたり、物を与えたりしている。(続

日本紀)ところが沖縄本島だけは独立していて、13世紀ごろに久米と奄美が

沖縄に朝貢し、14世紀に宮古、八重山が朝貢して、その領地となっている。

にも拘らず沖縄は14世紀前半に、三国に分裂していて互いに相争っていたが

1429年佐敷の小按司尚巴志によって統一され.1430年には明の皇帝か

ら尚という姓を授けられ、中国との進貢を続けている。ところが1441年

(嘉吉元年)になって、薩摩の島津忠国が、室町将軍足利義満から琉球を与え

られたと主張し、琉球に対する干渉が始まるのである。当時琉球は1372年

(供武5年)明に入貢して以来、1389年(元中5年)には朝鮮と、140

4年(永楽2年)にはシャムと、いずれも対等の形でそれぞれ通交交易を開始

して、貿易の利を得ていたので1407年(永楽5年)に足利幕府は、琉球に

親書を贈り、1441年には対中国貿易、対朝鮮貿易、対東南アジア貿易によ

る利益を横取りしようと狙い始めたのである。しかもこの侵略的な意図は16

09年に決定的な行動となって現われプピ。すなわち徳川家康は、琉球侵略の許

可を島津家久に与えたので、島津は兵船100隻、兵3,000人を繰り出して

琉球を一気に制圧した。それ以来1879年(明治12年)に至るまで、島津

藩・や明治政府は、朝鮮・中国・東南アジアなどとの流通過程において、徹底的

な収奪を敢行したのである。にも拘らず当時まで沖縄の産業は殆んど言うに足

りない程の僅かな生産であって、たまたま新石器時代の貝塚人が持ってきたと

思われる豚が山に逃げて猪になっただろうと考えられるものと、鹿ゴモ類、そ

れに後から入ったと思われる粟・麦・豆・米位のものであった。

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Page 4: Title 沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 1(1): 31 …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/.../6641/1/V1No1p31.pdf第1章序説 沖縄の経済社会を歴史的に瞥見すると、まず文献に見られる限りでは南西諸

「この猪の飼育を可能ならしめた条件として、イモ作が可能であったと考えら

れている。そして若しあったとすればヤマイモ、サトイモの類であろうと思わ

れる」国分直一b南島の古代文化31ページ。そこへややおくれて粟・麦・豆

・黍が入ってきて、粟作が複合されたというようにみられている。(琉球国由

来記)つまり先史時代にはヤムイモと粟・麦・豆等が想定されているが、稲作の

導入はどう考えられるか。稲については宝貝を求めて、江南から来島した者が

斎らしたものであろうとする柳田国男氏の想定がある。(稲の日本史海上の道)

15世紀済州島の漁民が漂着したとき、与那国島では米を作り、牛もあったと

記録している。そのとき済州島の漂民が牛の肉はうまいといったら、与那国の

島民は胸が悪くなったものか、ツバを吐いたという。(李朝実録)とすれば、

牛はいても島民は牛肉を食べなかったであろう。それもそのはず、牛は人間に

かわって労働するから肉を食べず、神聖なタブーとしていたに違いなし、稲の

籾の跡の残った土器は、石垣島の山原遺跡から発見されている長い籾で、それ

が青磁と一緒に出士している。また14世紀末宮古島の人々が.東南アジアに

も進出していたことは温州府志に記録されているから.南方系の稲が南方から

入ってくる可能性は十分にある。「しかも沖縄農村の発達過程から見て、それ

程早い時代に稲が宝貝との関係で登場するとは考えられない」(国分直一、南島の

古代文化41ページ)そうすると米も麦・粟b豆も」坊から入るチャンスがあったのではな

”0もそれは須恵器が導入される時期であろうと考えられる。8世紀頃、籾跡のrついた須

恵器が奄美まで発見されているからこのI寺期に稲作力滝美・沖縄に持ちこまれた可能{生力栃

為つまり、7it縄の稲作文化ま南北両文化の融合として理解されねばならぬ。とか

く8世紀頃に漸く稲が入ったという想定のとおりであれば、イモとアワの文化

はそれ以前に見られなければならない。与那国島や西表島では、15世紀に済

州島の漂民の記録どおり「スキを造らずコヘラを用いて、田をホジクリ、草を

去けて以て粟を植う」とありd掘棒耕作が営まれていたことが明らかである。

同漂流記によると、西表島には巨大なヤムイモが作られていたことが書かれて

いる。「ヤムイモあり、そのP長さ尺余人の大きさに如し<、両の女子が共に1

本を載つ、斧にてこれを断ち烹て之を食う」とある。この田園風景から判断さ

れるように、素朴でおおらかな沖縄の島々の人々に経済活動はどのように展開

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されていっただろうか。もちろん経済とは金を儲け金を増殖するための手段や

人間活動だと称されてきた。これが各地域においてその手段や活動力澳なって

いた。西洋の古代社会では大家族経済の中で、奴隷を巧みに操縦し、使いこな

す一種の技術が経済と呼ばれていた。中世社会でも経済と貨殖の道とは同義で

あり.従ってカトリック教会は利子の収受を禁じ、営利によって導かれる経済

活動はいやしむべきだとされてきた◎にも拘らず商品経済の発展はこうした宗

教的抑制をはねのけながら、営利のための人間活動に次第に広い活動分野を拓

いていった。いわば奴隷を使いこなす技術から貨殖の術へ、また近世国家の徴

税技術への発展は、商品生産の発展にそったものであった。どうしたら速やか

に金を殖やし、利子を生むことができるか、また国家の場合は、どうしたら多

額の祖税を人民の反抗なしに吸い上げることができるか、人々の関心はそこに

向けられた。そして近世の宗教改革は、人間の営利的活動に対して、宗教的な

認容を与えたのであった。少くとも己れの日々の職業に没頭し、それに全身を

打ち込むこともまた、神によって救われる道だと考えたことは、人々をして始

めて現世の営利活動にいわば大手を振ってとびこむことを可能にしたのである。

こうして資本主義の精神は何も資本家だけに限られた精神ではなく、労働者の

場合もまた彼等が近代的な労使関係のもとにおかれた賃金労働者である限り例

外ではあり得ないのである。すなわち現代の経済生活は消費を媒介として.不

断に繰り返され循環するもので、しかもこの循環は人間と物、或いは人間と自

然の直接的な交渉や関係を中心とするものではなく、むしろ物を中心として結

ばれる人間集団と人間集団との関係といわねばならぬようになる。例えば、農

民が自分の土地を持ち、それを自分の一家で耕作している場合をみると、沖縄

の場合は一戸平均四反であるから、貧農ではあるが、土地が自分のものなので

生活はどうやら安定している。播種から施肥除草刈入れまで全部自家労働で行

なわれ、収獲物は若干の種籾を除いて.翌年の収穫期までの食糧にあてられる。

麦も豆も野菜もすべてが目家消費にあてられる。だが今日では完全に

外部との交渉が断ち切られ、封鎖された農家の生活は事実上存在しな

い。とすればそれに応ずろ現金支出があるわけであり。貧農であつ’

ても現金支出に見合う現金を農産物を売って準備しておかねばなるまし、農家

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と外部社会との経済的なつながりを断ち切っておれば.やれ価格の変動だの、

物価高騰だの、米価対策、肥料の値上がりや.農業組合の動向など、日常の,最

大関心事であるようなことも、封鎖された農民とは直接関わりをもたない。

ただ自然条件である天候が、病害虫、早魅鴎風だけが気にかかり、それらだけ

が最大の関心事である。すなわち人間と自然との直接的な技術的つながりがす

べてだといえる。しかしこうした経済生活は、廃藩置県のころまではどんなに

経済外的強制が強烈であっても、どうやら可能ではあった。しかし今日の資本

主義経済における経済生活を理解するには正しい考えといえまし、現代の経済

生活の物は単に自家消費用の農産物ではなく、最初から商品として販売の目的

で生産され、市場で売られなければならない生産物ということである。そして

生産された物が商品である場合には、それは交換されなければならず、市場で

貨幣と引換えに販売される。そのうち生産財は企業によって、消費財は家計に

よって買いとられなければならぬ。つまり生産した生産物が商品の形をとると

人間と人間との集団的な関係として、登場するようになるのである。仮に小作

農の場合を見ると、収獲の約半分は地主の所有となるが.地主はもちろんこれ

を全部自家消費するのではなく、売り払って金に替える。この売られた収獲物

は商品である。すなわち小作農の場合には、士地の賃借料として収獲の半分が

地主の倉庫に納入されるから、米という商品をめぐって.地主と小作農民とが

土地の賃借料地代の支払いという形で関係づけられ、地主集団と小作農集団と

の関係が-つの社会関係としてつくりあげられていく。また小作農も地主に納

めた米の残りの一部を売却していくから、小作農と商人とのつながりが生じて

くる。このように商品によって結ばれた広大な社会は、その生産と流通と分配

と消費によって結ばれる社会であり.それ自体が一つの秩序である。

そこで農民が生産手段としての土地を持っているかいないかがすべての経済生

活の幸不幸の岐れ目になるのである。言わば地主にどれだけの小作料地代を払

わなければならないかが、農民の生活を左右するし、米一袋が幾らで売られる

か、野菜.魚がいくらで売られるかが、地主又は網元の懐具合を決定するので

ある。他方では1kgの米が幾らするか、野菜や魚がいくらするかが、又賃金労

働者や俸給生活者を貧乏にもし、生活を楽にもする。実際に生産物が商品にな

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ると、その流通は貨幣によって媒介され、地正や農民が充h払った生産物の代

金が、農村に入りこみ、或いは肥料代となり、或いは農具の購入資金ともなり

税金や借金の支払いにあてられる。裕福な地主なら株券や社債を買い入れたり

それを足場にして地方銀行の役員におさまったりする。要するに、貨幣経済の

農村への侵入は、自給自足の農家総済を分解するだけでなく、資本主義産業の

ための広大な市場に転化するのである。

一般に、資本主義緤済の場合には零細農民は一家をあげて農村をあとに、農地

を喪い、耕作権をすてて都市に流出するのが普通である。そこで彼らは都市の

賃労働者となり、さまざまな苦労を経て、漸く一家をかまえるようになるので

ある。すなわち農地をすてた労働者は近代工業の発展するにつれて、次第に自

由な賃労働の給源になっていくのである。ところが沖縄の場合は農民離村が本

来的な形で遂行されるのでなく、いわゆる農奴的な農民はそのまま狭い土地に

小作農や零細農として、しばりつけられたまま、独特な土地制度や薩摩と琉球

王府からの二重搾取によって身動きがとれないままに、商品経済の中にとびこ

んでしまったために、農村の近代化がおくれてしまったのである。すなわち、

農業経営の近代化や合理化がおくれた上に、他方では工場工業のための自由な

賃労働が変則的な形でしか提供されなくなったのである。

「今日では、工場労働者は過剰な農民ではなく、賃金労働者であり、資本との

雇用関係の下におかれており、大企業の場合でも彼等を計画的に技術養成を行

ない、長期雇用の形で企業に結びつけるよう労務対策をするのである。また資

本主義生産の初期の段階においては、農村では零細農民を追放した後には、地

主と貧困な日雇労働者とが現われ、資本主義的農業がはじまり、都市では問屋

制家内工業が支配的な生産様式となるのであるが、この段階では生産力はまだ

道具と職人労働者の技能に依存している。」(大内力著経済学参照)

道具を手にして働く職業的労働者の技能または経験がすべてを決定している。

にも拘らず、沖縄の資本主義的生産が著しく、たちおくれて停滞性を長く続け

破行的であったのには幾らも要因があった。すなわち①独特な士地fl;{渡であり、シ②溺掌侵入以来の極端な収取政策であり.また農民の天災による③諦観的な生活や

④資本が皆無の状況下Iとあったことであった。こうした沖縄の経済社会を歴史的

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に見ると「171ft紀以後農業生産力の発展の結果.農村内部に発生した商人層

を商業から遠ざけることによって、貢租の基礎としての農業生産の維持と分解

の阻止を目的として、さまざまな指令を出してきた。

このように、役人層や薩摩藩の指令は農民を商業から完全に遮断し、自らは都

市生活を営ん焔そしてその都市生活を維持するためには、貨幣にたよらなけ

ればならなかった。」(第3章参照)

そのためには現物として農村から徴収した年貢を貨幣にかえねばならなかった。

もっとも貢租のおもなものは米・粟・麦。豆・上布等であるが、これを給地か

ら貢納されると、まず那覇や泊に廻送する。また貢租や夫役の布達令をもたら

すには交通機関の整備も必要である。だから各間切番所には、官馬の制度があ

り、馬番という役職がおかれるようになった。その結果宿道の整備が行なわ

れ、また山原や地離れの貢納は年2回廻送され、先島には春立廻船、仲立廻船

が通航するようになった。それでもその公務が余りにも重要であったために、

廻船の船頭役の星功は実に大きかった。

このように、貢租の商品化の機構ができあがり、商品流通が拡大していくと、

農民は自然に商品経済の中にまきこまれていくのである。

このような過程をへて那覇の商業町を中心に市場が著しく拡大していくのであ

るが、この那覇市場の創設はおそらく明初36姓(1392年壬申)が渡来し

てからのことであろうか。彼等の多くは舟航に従い、その家族が留まって、市

販に従事したようで.これらのものが、市塵(店)や露店に顧客をまって、那

覇町の濫傷になったものと思われる。

李朝実録によると「江南人・南蛮人皆来商販。往来不絶」とあり、その上市中

で販売される物貨には縁段絵帛芋麻布、生布.楠剪刀、針、蔬菜、魚、塩、南

蛮詞斑絵6斑綿布も檀香、白経黒緯綿布、藤唐.青黒白綿布磁器をあげている。

また同書によると、「唐人の商販のために来り居る者あり、その家は皆瓦を蓋

い宏麗内には丹朱を施し、堂中には皆文椅を譜<」とあり、久米村の唐栄人が

支那風の店舗をかまえていたことが知られる。

慶長以後の冊封使張学礼の記事によると「天使館の前に百畝ばかりの空地あり、

毎日午后になると、婦女、老少筐を携えて筥を掌げてここに集り、貿易をなすとあ

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いしげえまちb」これが据筐町であり、向象賢の時代にはこの据筐町の外にも、汪揖の記録

によると「大勢の婦人が頭に物を載せて集まってきて、地面に列んで売ってい

る。その商品は油・塩・野菜の類で、中にも豆腐蕃薯が多く、紙扇、木楴.糸、

煙草、草履があり、米は売っていない」とある。すなわち汪揖渡来の頃には米

はすべて上納物となっていて、一般の常食は蕃藷であったことを物語っている。

また徐葆光の記録によると、市は辻山の沿岸坂上にあって朝夕2次の市がたち

集るのは女ばかりで、商品としては魚・蝦・薯・豆腐・木器・磁陶木硫、草報だ

けとある。しかし宝暦6年(1756年)に来琉した周煙の記録によると、商

品は魚・塩・米・蔬菜。冬瓜芭蕉布、綿布とあり、米が商品として市場にあら

われていることは注目すべきことであって.おそらく士分の者が禄として得た

米を商品として市販していたことを知るべきであろう。

また土地については.沖縄は穀物の収獲高から土地を計ったとの考証もあり.

(南島論叢、宮里栄輝論文)これからすると、慶長以前には厳密な検地と可土

地を基準にした貢租のとりきめがなかったことはほぼ確実である。にも拘らず

薩摩人によって実測されたという慶長検地が.検地条目を度外視した杜撰なも

のであるだけに、薩摩への貢納は殆んど不能であった。従って慶長18年(1

613年)には代銀32貫目にかえられたが、これとて琉球王庁では借入など

してやっと支弁している始末である。すなわち、竿入当初の琉球の知行が8万

9千86石と定められてから、10年後の元和6年(1620年)に米で貢納

することになったが、それも「高一石に対して9升2合の高を納めよ」ときめ

ていながら、分量については年々きめることとすることに落着いている。

そして更に十余年後には「知行高を増し、ついで先島には人頭制を原則とする

ようにせよ」という。薩摩藩にしてみると、各島各間切毎に検地はしてあると

言った手前もあり、これまで地割替制度によって、ムラ毎に徴していた穀物の

納額を据置にして、ただ各村の草高に割って、高一石に対する税率を定めてい

るところに大きな手落ちあるのである。これによってみると、慶長検地とは地

割制度によって地積の広さを知り.検地条目による間竿の長さに換算して、高

を定免法によってし、収奪を厳にするという姑息な方法であったと見ることが

できる。何故に検地の目標通りに竿入をしなかったか.これについて奥野彦六

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郎氏はほN次のようなことを言わう、たことがある。「沖縄では人間社会の内面

的繋がりが、それに照応する程分化整備されていなかったからだ」一南島の原

山勝負制の構成24頁。そうして労働促進を厳格に法制化することによって、

共同体社会の崩壊を企てたのである。例えば1680年(延宝8年)詮議綴の

覚によれば「諸間切の百姓中、上納や地頭の作得について不足し、他から借物

し、利が重なり、身売したいという者があって、間切の被れになるから.この

際は地頭代から両惣地頭に申出て、次書を申し受けて借りるように定められた

い」とし、又「百姓が常々耕作を油断し、造作がましき儀共があって、そのよ

うになるのでいよいよ油断のないよう仰付けられ、後日身売するような者が出

れば、不足分はその所の百姓中に割当すれば、互いに差引し油断なく調えると

存じられる。右引合のため田地奉行が折々見届けるよう仰付けられたい」旨上

申されている。これらの指令はすべて薩摩藩の命によって、琉球王府でつくっ

たもので.いわば同族団によって結成された組の責任を強化する方策であった

のである。すなわち「向後組中にて相糺し早々申出候、若致油断大分成立候ハ

ハ.組中迄其科可由付事」といい、さらに山野の仕明も許可されていながら次

のような指令も出すのである。「山野大粧仕明候ハ、採薪木、牛馬飼之不如意

罷成意諸人之為不罷成」といっては差止めてしまう。にも拘らず、国頭中頭

地方については「焼山仕開して用材も達しかねているから、位持の中から山当

を定め巡回せしめ、空間があれば、男女1人につき小松1本宛を植付けさせる

よう厳達」している。こうして1682年(天和2年)には耕作の指令のため

「諸間切主取立置候弥無油断毎々作場致見廻、田畑之耕大方仕告於有之、高

奉行方披露可仕事」とする一方、間切からの身売の訟が絶えないので「向後は

所の捌理、耕作当で新米を判らぬ前に、出来米を見立て上納差引するよう」と

命令している。つまりこの頃までは納税も検見注と定免法を折衷して、採用し

ていたことが明らかである。そして宝永6年(1709年)から島津藩に対す

る貢納がほ蟹確定してしまうと「高一石に付運賃を加え、1斗1升四才を添え

て計1万3百69石余の年貢ときめている。にも拘らず以後は島津藩の御都合

次第で「砂糖焼酎上布等もすべて米に換算して代納差支なし」ときたり、大阪

市場の砂糖相場が高くな島と、特に砂糖のみを代納高にきめて、貢納を命じた

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bすることもあった。なお、享保7年(1722年)島津藩内で最後の大々的

な検地が行なわれたが、その際も沖縄に対しては、従来の杜撰な検地帳を土台

にして.それに耕地面積の増加と、農耕技術の向上6人口の増加を見越して、

琉球の知行を94230石余に増額してしまった。(内所帯高55,092石、

給地高39,037石途)つまり薩摩に対する貢納額も418石増加しているが、

なぜ所帯高に5,092石の増加をしているか、これに対して増加高は「知行の

増加による比率である」といっているが、この知行の増加の内訳については殆

どふれず、ひたすら耕地面積の増加によるものというところに政策上の押付が

あったことを知らねばならぬ。そのために百姓も-石につき4合7勺2才の掛

増をされることになった。これではどう立働いても貢納は覚束ない。間もなく

雪騨二二霊:f篁蕊菫鰯ii二霞二二宴厨:亘聲:難身の法司であるところから、薩摩の察温に対する風当りがいやに強い。

そこで享保17年(1732年)には、各方面の分限道義を知らせるために、

御教条を出し、翌々年1734年には農務帳を出して生産の増加を計って窮場

を凌ぎ、一方あきらめの思想をふきこんで精神革命をなしとげようとした。

註一(国書問題とは,察温が法司官になったとき所謂和漢不偏の政策をとって、漢文組

立方の役職を新たに置いて、漢称の書式を奨励した。それが元禄以後の風尚にも応じて、

幕府や薩摩向の書式にも貴国、大君、台聴などの文句が使われるようになった。

その結果、正徳の新井白石の目にとまり、散々警告を与えられて、やっと幕府向の書式は

先例通り、和様にすると申開きをして事なきを得た。そこで察温は直ちに豊川親方、惣慶

親方を薩摩に派して、薩摩の裕筆日高治右衛門為一について、曽我流の書式を学ばせるこ

とになった。これが国書問題といわれるものである)

こうした社会,情勢のもとにあっては、規範もとかく冷厳化し易い。察

温が御教条を出した直後には、耕作当が月に巡検下知をし.農民がそ

れを受けつけぬようであれば、總耕作当.地頭代に申出るよう指令さ

れたりしている。

さらに、明和5年(1768年)には、文字通り鞭による耕作駆立

40

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を敢て訓令せねばならなくなった。(南風原間切耕作働方締方帳)、先島に

は従前通り本島とそっくりの厳達がなされ、1768年(明和5年)には特に

検使を派遣して(検使与世山親方)宮古、八重山規模帳がそれぞれ通達されて

いる。この規模帳の土地に関する指令によると、宮古、八重山とも「田畑の持

不足の者には持過の者から配分するか、近辺の山野を切開くかして親疎なき

ようにせよ」といい八重山規模帳の第]条では「頭懸の上納地であるから正

道に配当せよ」とし.頭はずれや、死生ができ次第「年々配置替してば手むづ

かしくて永続しまじく……」などとあり、また宮古規模帳によると.年令によ

る上・中・下の各1人分の畑の広さを定め、年々の配置替を差留めて、過不足

の調整だけにとどめている」とあるから.ごく一部の例外を除いて地割制度は

なかったと思われる。(八重山では田は毎年割替える定めで論った)

このような旧経済制度から脱皮して、産業の近代化に進んだのは明治10年代

からである。そうして緩慢ながら資本主義経済が成立しはじめるのが明治32

年から着手された土地整理事業を契機としておこったものであった。

その導入に大きく貢献したのが寄留商人と尚家を中心とするそれを取巻く首里

士族層であった。しかも彼等が最も注目したのは沖縄における砂糖生産に関る

各種の企業であった。

それでは砂糖製造に企業家が注目した要因とは何であった力も先ず砂糖の来歴

からみてみよう。1623年(元和9年)はじめて製糖法が沖縄に伝わってき

た。この製糖業はその後急速に発展の一途をたどり.製糖法が伝来後24年目

の1647年(正保4年)には貢糖として、島津藩に黒糖を納めるまでになっ

た。糖業が急速に発達したのは沖縄の気候風土が蕨作に適していたのと、甘薦

にかわるべき換金作物がなかったためと考えられる。貢糖は最初王府が島津藩

に対する借金償還策として考え出されたものであったが、島津藩は黒糖の利が

莫大なものであることに着目し、借金償還にあてるための、島津藩に納める黒

糖を一時的なものでなく、これを永続させるため貢米の一部を砂糖で代納させ

ることにした。これがすなわち貢糖である。

その他、王府は雑石代の租と相殺して砂糖を徴収し、残余があると一定の代価

で買上げる買上糖の制度をも設けることにした。王府は財政補強源として.砂

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糖に目をつけ、王府の手による買上げが終るまでは自由に販売のできないよう

な仕組みをつくった。つまり、王府は農民から砂糖を不当に安い値段で買い上

げ、それを転売してその格差からくる利潤によって王府の財政を補強したので

ある。にも拘らず王府の経済政策はどこまでも自給自足にあって、食糧を確保

することはもっとも大切なことであったのである。従って、甘薦作付面積の増

加によって食糧確保に与える影響禿考え.王府は1697年(元禄10年)に

沖縄の甘薦作付反別を制限し、凡そ1,500町歩内外におさえたのである。

そして糖業に関する監督機関を詔け、甘薦栽培砂糖製造の取締りをきびしくし

た。例えば、貢糖に適しない黒糖が製造されると.他の間切から貢糖に適する

砂糖を購入してでも納めろとおどしをかけるのである。だから農民は貢糖納入

のために砂糖前代をかり受け、借金を背負い込むようになる。いわば貢糖買上

糖の制度は王府の財政補強のためであり、ひいては島津藩の財政建直しのため

の手段に他ならなかったのである。

この慣例は法令にすりかえられて、明治30年代の砂糖の取引法には前代法と

入札法、競売法となったのである。

前代法とは、小生産者が砂糖製造資金に堪えられないからということで、次の

製糖の季節が来る前に、高利貸や砂糖商人から製糖を引当てに金を借りるので

あるが、これが極端に高利である。そのために産を破るものが続出する有様で

あったo

入札法とは、村や組の生産者が製造した砂糖を競争入札によって取引きをする方法である。

また競売荘iとは.砂糖商人の仲介人(明治35年頃には約200人の商人手先がWと)力製

糖期にHd糖屋をかけめぐり、僅かの日用品と砂糖を交換したり買い集めたりした。

この仲介人の中には鹿児島から移住したおちぶれ士族が多かった。(第3章参

照)

前代法は、18世紀初頃からすでに行なわれていたらしく、1735年(享保

20年)の西原間切公事帳には次の通り記録されていろ。「諸上納の現品を調

べるのに差支えの節は.砂糖前代を下さるよう願い出れば砂糖代価の3分の1

程の前代を下さるようにする」とあるように王府時代の砂糖は農民にとっては

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殆んど「1由に允寅のできない仕組みになっていたようである。

文久・ソL治ごろになると、大和商人が砂糖売買に介入していて、大和商人から

砂糖を引当に砂糖前代をかし〕る農家が多かったことは、1870年に記録され

た南風原問切惣耕作当日記にも「砂糖前代を借りるときには御所帯方、御用意

力から借りるようにせよ」とあり.また’877年(明治10年)に間切役人

の申渡証文にも「百姓どもが焼過砂糖を引当てに、大和商人から前代を借り受

け、返済ができないため間切の上納糖までも大和商人に引取られ、与や親類、

村が弁償する破目になり、なかには家内離散に及ぶものも段々あるので、大変

困った奉句その取締りについて内務省出張所に相談する始末になっている。

同じころ.東恩納村締向条々によると「焼過糖を引当てに内々に砂糖前代をう

けとるときは流刑に処す」としてある。ときには上納糖まで砂糖前代の抵当物

として大和商人に引取られることがあった。つまり大和商人を厳重に取締れな

かった王府は.全く逆の方法で砂糖前代を借りる百姓を取締るという手のこん

だ悪策を敢てとったのである。もとより砂糖前代の借手貸手の関係が王府時代

から同定されたものではなく、経済の発達につれて変化している。すなわち王

府時代の砂糖前代は王府と農民間の関係があったのに、幕末から明治にかけて

は、百姓と大和商人の関係になり、廃藩置県の頃から高利貸や地方資産家が加

わった。その上農民は納税に必要な貨幣を得るために換金作物を作らざるを得

ないから、大損をすることを覚悟の上で砂糖前代を借りる外なかった。

砂糖の利廻りが多くなると.商人はこの砂糖前代の貸借方法をいろいろ考えた。

例えば、

(1)-挺6.7円の砂糖相場のとき、3,4円の前代を貸し‘製糖期には相場

と関係なく、一挺をひきとる。

(2)製造される砂糖を引当てに、前代を貸し与え、元利とも製造された砂糖で

清算する方法。

(3)元金拾弐円を貸し、それに対する利子として砂糖一挺を提供させる方法o

註一(この12円中には肥料を与えて肥料代の残高を貸したので実際の現金受取高は5

円であった。)

(4)旧8月頃を返済期限として金を貸す。その際2円貸すときは利子の分40

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銭を差引き、農民には1円60銭渡す。期限がくると2円を返させる。旧8

月は農村の金づまりの時期で、返済不能になるから、それを見越して返済元

金を2円40銭として証文を書きかえさせる。それに月3分という不当な利

子をつけるから製造した砂糖はごっそり持去られるという手法である。

以上は、貸付方法であるが、どれもみな農民を零細農としてくぎ付けにする

経済外的強制であった。おまけに沖縄の砂糖取引をめぐる農民を保護する施策

は殆どなかったといってよく、その結果、農民は糖商高利貸の毒手にかかり、

砂糖前代の名ですっかり買いとられて[まった。糖商は糖商で、彼等の手先と

なる仲介人を地方に入りこませ、砂糖を買いあさり、その上農家の金融逼迫の

時期をみはからい、農民に砂糖前代を貸しつけるという有様である。

明治34年琉球新報の記録によると「伝聞するところによれば糖商の資金は少

くとも、其の2割は所謂前代に投入せらるるならんと云う。而してこの前代な

るものは世界無比の高利にして、本県産出糖の5分の1はこの狡猪なる方法を

以て買いとられ、農家の迷惑甚だしきものなり、この情勢近年漸次盛なるとの

事なれば.…..」というように、明治30年代には砂糖前代が汎<行なわれてい

た。当時島尻郡の砂糖月報第2号によると、産糖高に応じた戸数は次のとおり

であるo

iJii巽壽ij二1675戸一一

2挺1挺 3挺 5挺

iLrii器-回6~10挺

21~25机 26-30モ 31~35挺

20 11戸 9P

5挺以下の生産農家と全糖農家との割合には50%に近い数字となり、多く

の小生産が高利の砂糖前代の取引によって利を奪われていたのである。その結

果小農は高利の金を借りて税金を納め.砂糖の全生産を収奪されるという悲惨

な情況に陥るのである。

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また5挺以上の生産者と雌も金融逼迫の時期になると、砂糖前代を借り受けな

い者はないという有様である。それをよいことにして、糖商以外の地方資産家シェーキモチ

(この多くは仕明地持である)は、4.5人で組合をつくり.己れの地所抵当

に銀行から借金をし.その金を5割以上の高利で農家に賃付けるのであるから

土地整理以後の仕明持というのはおよそ高利貸の類いであったといわれても仕

方があるまい。これが明治期の農村社会でもあったのである。

註一沖縄の歴史を書きかえた薩摩の徒15条(慶長16年)(1609年)

1.薩摩下知の外唐之銚物停止たるべきこと。

(唐貿易の利を一手に掌握しようとする野心が歴然としている)

2.由緒ある人と錐も御用に立たざる人に知行をやるな。

(久米人を優遇するなという野心がありありと読みとれる)

3.女房衆に知行をやるな。

(巫女や王女に知行をやるな、神官として土地を官給マリ筍rしばよい)

4.私の主頼るべからざる事。

(主従関係を結ぶな。琉球の人民はすべて貢柤納入の農奴である)

5.寺を多く建てるな。

(寺調制度をたやすく施行するためには、薩摩の如く-宗派を信仰せよ。禅宗以外の異

教は一切法度である。キリスト教禁令のためには各間切毎にキリシタン帳を作製せよと

いう意である)

6.薩摩の御印判なき商人を許すな。

(中国、南方との貿易を禁じて、薩摩が貿易の利を独占するという意である)

7.琉球人を買いとって日本へ渡るな。

(沖縄人を奴隷と心得ての徒であると同時に、土地に緊縛して貢租納入の具に供すると

いう規定である)

8年貢公物の奉行置目の如く取納致さるべきこと、

(年貢公物や収納は徒通りとし此にも取納を違えるな)

9.三司官以外の命をきくな。

(三司官は薩摩の番犬であるぞという規定である。さればこそ国王をも国司と唱うべき

ことというのである)

10.押売押買をするな。

(薩摩の命による物価統制策に追随せよという意に外ならない)

11.喧嘩口論をするな。

(もの言わぬ農民をつくって、ひたすら農耕に精出して働き、貢納を遅滞なく収行な

えという意である)

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12.百姓、町人に規定の諸役の外無理非道をするな。

(農民から過分の収奪をして、疲弊せしむるなという意である)

13.琉球より他国へ商舶一切遣るまじきこと。

(琉球人は南洋、中川への貿易は一切法度であるぞという意である)

14日本の京桝の外用うべからず。

(京桝は標準桝であるに拘らず、在来の細口闘桝よりiii目が多い)

15.ばくち僻事有るまじきこと。

(農村行事は一切やめて、ひたすら農狐とはげめよという意である)

右条々違犯の輩あるに於ては厳科に処すべきもの也。

慶長16年卒亥9月19日兵部少輔伊勢貞昌

第2章土地制度

第1節地割制度

おもろ時代初期の社会は10数戸単位で、丘陵の小高いところにマキヨと称

せられる集落を形成し、その集落は根屋を中心とする血縁集団によって維糠さ

れていた。従って祭礼も農耕儀礼と密接に結びついていた。彼等の信仰の対象

はセジ或はケとよばれる不可視の霊力やお嶽、泉川、火の神などのようなもの

であった。すなわちこのマキヨが地割の単位であったことは、次の史料によっ

て知られようC

l皇方47,419坪5合

但跡々地割替之時東江地、西江地打込(組合)を以ておひや(統肋帳にて

利折取究(差引)被置候得共今般地謝'1替之儀両方相分り候に付、東江地は總て

村近候上下畑勝にて坪相増、西江村之地者上畑多候故坪相縮候に付、役々島中

末々迄熟談を以て本行之増坪東江村下畑之内よ'')西江村越、利折同断之筋相庁

付受取申候事、従来この島では東江、西江の両村共同で地割を行なってきたが

今回特に土地を区分して各村別に地割したという意で、以前は両村一単位で地

割していた。-1829年(道光9年)西江村畝寄帳

従って地割の原初形態は、各一村に限られ、地積の広狭によって、削当地の広

狭も異なり、久高島の如きは久高、外間の2村より成立せるに拘らず、2村共

同して地割を行ない.また慶良間島も渡嘉敷、小繊の2村で共同地割そしてい

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る。これは血族共同体による村毎の地割が、人口の繁栄につれて、割当の面倒

さ加減を考慮しての処置であった。この傾向は1899年(明治32年)士地

整理令が出て、最後の地割替の際に顕著にあらわれている。このとき沖縄本島

の村は563村あったがど゛の村も数個の地組に分かれ、組の成員が一門又は

親族に限られていることによって実証される。この地組は集落成立の当初、草

分の本家を中心として、一門のもの同志が開墾された地積を平等に区分し、共

同労作によって耕作したのに始まるのである。ところが17世紀初頭思いがけ

い薩摩の侵入をうけて、従来の制度が改められ、その機構が班田制類似の形態

をとるようになったのである。すなわちこのころになると土地制度は、百姓に

土地を配分し、時々その割替改易を行なって、人口の移動及収益の均等に対応

するよう制度化されたものといえる。旧制度によると沖縄では本来土地の私有

は認められないようになっている。人民は一定の規格の下に土地の使用を認可

されるだけであって、勿論売買譲度質入等の権利はない。唯僅かに開墾地に対

して私有が認められ、その売買譲度質入の自由を与えられたに過ぎない。

士地の大部分に当る百姓地は農民に対し、人口又は貧富の差、耕地の遠近、交

通の便等の諸条件を斜酌してこれを割賦配当し、耕作収益をせしめたのである。

従って収税の法も村が連帯責任をとり.賦課された税額をその間切が村へ、村

がその住民へ頭割に負担させる仕組になっていた。

以上の性格から考えて薩摩入後はその計算による總石高に対する納税額が定

められ、その後農耕地の増加を見越して.税額を引きあげられたため、頭割の

負担額を確保する必要にせまられて、余儀なく従来の素朴な地割をも.変革せ

ねばならなくなったのである。だから血縁同志でできた地組でも.薩摩入後は

王府の公認とし、税収を強化する機関に化してしまったのである。

こうなると、地組の組織も機構も変革され.マキヨによる地組の観念は台なし

になる。1734年(擁正12年)の農務帳によると、「百姓組合を以田畑相

授置候付而は.其与合之者共常々睦敷取合.相互に農事談合致、各助力を以可

相働候、年貢及不納者於有之者、其与中弁に申付置候故、致大形候は冒厄害に

相成与合之詮も無之侯間万事熟談致、相互に引進可相勤事」つまり百姓地は与

合単位に割当ておるから互に農事を相談して励まし合い、年貢不納者が1人も

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出ないようにし、若し不納者があれば、連帯責任を以て弁償するようにせよ。

と示達している。この精神は血縁組のように利害関係をぬきにしては、相互扶

助の実はあがらないと考えたからに他ならない。そして年貢を完納するために

は「ユイ組を結成するに加かず」と考えてそのように指令を出すのである。

1768年(乾隆33年)南風原間切耕作働方締帳一によれば.

百姓中耕作方之儀ユイ組を以相働候得者、別て奮い出殊に不働之者迄引勧め、

過分為に罷成候処、至頃年緩怠之儀有之侯様子見及申候間向後右之通りユイ組

を以て不断可相働させ候事。

1.ユイ組人数之内より頭取1人宛相立、右候而村々耕作当並位所、居分賦

り合を以村出口出口に罷出。何れも未明に原出可仕させ候・若ユイ組仕事不仕

者は科鞭15,且又日出候而原出仕候者は同10宛可打付乳

位所並耕作当共右下知方相狼候はご位所は科銭拾胃文宛無官之耕作当並ユイ組

頭は科鞭10宛打付候也。

1.老人又は病者などは頭々究めを以て右ユイ仕事可差免候也。

1ユイ組人数之内.病気之時は日出不申内に耕作当へ暇乞可仕侯、左候は

嘗見届之上可差免候.若暇乞不仕者は科鞭15宛可打付候也。

1.人々起立時分又は原出之時分耕作当にて日に2度宛打可申候也。

右通りユイ組を以て相働不申、10人にて1日に1時油断仕候はⅦ人6分6

厘百人にては16人6分、千人にては166人、千人にて1個月には4,980

人、1年には59,760人、一時之油断、件之頭数に相及何之下知方よりも別

けて肝要成る義に付て此段申渡候也。

以上を要約すると、百姓どもの耕作はユイ組で働けば皆が奮いたち、殊に働

かぬ者まで励ましてよい成績をあげるのに、この頃ではこの方法を怠っている。

今後は左の通りの方法でふだん働かせるようにせよ。

1.ユイ組人数のうちから頭取を1人づつ立て、各村の耕作当ならびに有位

者が、それぞれ分担して各村の出入口に出て、全員を夜の明けぬうちに田畑に

出させるようにせよ、もしユイ組仕事をせぬものがあれば、科鞭15,日が出

てから田畑に出た者は鞭10づつ打ち付けよ。

1.ユイ組人数の中病気の者がおれば、日の出ぬ中に耕作当へ届けでて許可

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を得よ。届出があったら、見分けの上田畑に出るのを免ずる。届出ない者は鞭

15づつ打ちつける。

右のユイ組で10人で1日に一時油断すれば、1人6分6厘の油断になる。

百人では16人6分、千人では166人、千人の1カ月では4,980人、1年

では59,760人という具合に、-時のiM]断がこういう頭数になる。

すなわち、この指令通りであれば10人で2時間油断すると.1人6分6厘と

いうのだから.1人では1分6厘6毛であって.つまり1日12時間の耕作労

働というのがきまりである。もちろんこの外に田畑から帰った後の夜なべ仕事

がまた背負いきれないのである。こういう次第であるから、百姓耕作の直接の

指揮者である村々の耕作当の勤務も厳をきわめている。天保6年(1835年)羽地間切万定方之条々によると、

1.村耕作当勤方之儀毎日朝晩百姓中仕口之首尾承届、月に5度宛原々走廻

作場見届、就中作毛時節不取後様致差引、家内家内へも無間断走廻.諸仕付方

又は塗取扱等能々入念侯様ロ丁寧可致下知候、若大形相心得、不念の稜有之者は

惣耕作当にて則々科策取行其首尾可申付侯乳

1.農業方之儀至て大切成物にて農務帳等被成下候上毎年田地奉行御回勤被

仰付事候得共、夫程励之体不相見得甚不可然事候間以来村耕作当にて百姓中引

励.毎日卯時限為致原出、帰宅之殉は茅薪木又は牛馬之草其外窒相成候等可持

帰候、若右様之働無徒に罷帰候者は屹糺付科策10宛申付侯乳

1毎年明替畑之儀飯料次ロ第一之事侯間耕作当共常々其心得以、来年之明

替畑は兼て致見分何原より何万坪明侯段惣耕作当引合之上書而にて年々8月中

限可申出候、9打栫之剛にも日限等相立堅取締致、耕作当にも不断走廻致不知、

11月内に相仕廻させ、是又其首尾可申出、自然下行届者有之候は蟹惣耕作当

へ申出則々科策可召行事としている。

こうして農民の不幸は連日鞭打によって耕作労働に駆りたてられるばかりでな

く、自分の田畑に自分自身の計算で自由に作物を作ることすらできないまでに

制度が変り果てたのである。

この重租の打開策として、正保2年(1646年)首里王府は砂糖とうこんの

専売制をはじめたのである。これは砂糖や鯵金の全製品を私売を禁じて王府で

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買いあげ、王府はこれを薩摩におくl')、その利益を薩摩藩への負債の償還にあ

てたのである。しかし専売制になってから砂糖生産額が急上昇すると、元禄1

0年丁丑(1697年)に砂糖、うこんの生産制限令を発してきた。

すなわち「百姓頭高に応じ作りたてられ、砂糖は百姓1人につき4斤60匁、うこんは2斤30匁ずつ」とさだめた。つまり産額を制限して人頭に割、あて

たのである。それ以後王府は砂糖生産と甘蕨裁培を厳しく監督し、制限以上の

栽培があると、切角植えつけたものも容赦なく抜きすてさせた。これは砂糖増

産によって大阪市場の相場変動が、鹿児島での買上価格の低下をまねくのをお

それたためである。実際に当時の沖縄の砂糖生産額は3百万斤程度であって、

王府は農民からこれを百斤で銀20匁で買いとり、薩摩藩へは銀35匁でおさ

めていた。(薩摩国史)大阪市場の相場は平均して百斤70匁から80匁だっ

た。いわば薩摩藩と首里王府は共同謀議の上、砂糖による大きな財政上の利益

を得ていたのであって、農民にしてみると全く踏んだり蹴ったりで、グウの音

も出させぬというのがいつわりない'情況であったのである。

このように砂糖の収穫をあげるのもみな組の機構がもたらしたものであった。

だから村は村内の各組を統制し、村には間切から徒なる公吏を1人配置して監

督させ、徒の下には村民から選んだ耕作当山当、頭が居て、普段村屋に詰め

ていて、耕作、営林、納税風紀、その他の行政事務を処置し、重要事項につい

ては、番所役人の外に与頭.位所筆算人等が集合して協議し、最も重要な地割

配当協議とか、村内法作製の協議は村民15才以上の男子全部が集合し、村揃

(村吟味)で決定した。村又は組の集合とか召集は各村民に一々通知するので

なく、村屋に備付けの太鼓を打ちならし、或は法螺貝を吹き鳴らして周知させ

ていた。年貢が重んでくると、それを完納するためには、村内法によって法規

を定め、村民が他村に移住することや、他村から嫁をもらうことまで禁止して

しまったo

康煕36年(1697年)に制定された中頭法式帳によると、「諸間切諸島百

姓諸所へ致中宿侯儀素より不相成候事に付、時々取締申置候趣も有之候処、其

守無之千今致中宿居候者段々罷在由相聞甚不可然事侯、百姓は国土大切成産業

相授候付随分入居令繁栄、産業無油断様不引励候而者不相叶候処、連々諸間切

50

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一統疲勝成果、前々相替入居も格別相減、百姓共地方致持過、定納物等調兼及

難儀侯由、右体中宿之者共猶細密相糺、早々令帰郷候様取計候」とあって、組

員の移住(この中には商業を試みるものもいた)をすっかり差止め、商業との

交渉をすっかり中断せしめている。この精神は組又は村は納税、風紀、勧業.

その他の行政機関であって、その成員たる農民lま完納をするための存在であるか

ら他所への移住を遮断して、不納者や貧困者の救済にあたるべきだと解釈した

のである。こうして地割制度は18世紀になると、百姓が地割地を受けて、租

税を完納するための貢納機関にまでなりさがっている。従って農民は村吟味に

よって自治的協議を行ない、地割地もつとめて過不足がないように、或は疲弊

しないよう'こと、家族の多少、交通の便否.地位の如何などつぶさに勘案して

配当する方法をとったのである。

享保19年8月に制定された農務帳によると「田畑之儀時々割亘、為指究主付

無之、模合持之筋に仕置に付而、地方之格護致大形、地位漸々薄相成不宣候、

依之地割申付、永々授置候条堅得其意.此心得専大切に存格護可之有事」とあ

り、地割替の結果土地に対する恒久の観念を失わしめ.土地を荒廃させるおそ

れがあるから、今回の地割を最後に永世これを私有させるという意であるが.

農民の虚をついているといえ、考える農民の総意を捉えることは不可能であっ

た。また農務帳にみえる「地広明候を専に存候儀甚不可然候、牛馬飼採薪の不

自由迄に而茂無之、手隙費取実少無益の仕形候、随分用璽致手入致候はぎ、地

方僅2而茂取実格別相増、勝手可罷成候間、専其心得可有之事」は、寛文9年

(1672年)3月16日羽地仕置にあるように、羽地摂政が「薩摩の増税に

応ずろため、その同意を得て諸地頭地並に百姓に墾田を奨励し、百姓でも仕明

次第私有を認可する」という法令に基づくもので、これ以来土地の開発が進み

間切の新譜もつぎつぎに行なわれたが、この法令を受けた察温の施政方針は、

むしろ土地の開発よりは、農事改良や施肥、水力酒養、殖林にあったから、こ

の際土地の開発に制限を加えて墾田の永久私有にふみきったのである。

そうして農耕の改良によって収約的農業をすすめ、生産の増殖を図ろうとした

のである。この意味からすれば前掲の資料は、農民に組合をつくらせ、その組

合に-定量の土地を配当して、地割替なしに耕作させようとする意図が明らか

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である。しかし源初以来行なわれてきた地割の慣行が、そう易々と一片の指令

で以て廃止されるものではない。

各村々では依然として地割を続行したために、察温の令達は自然消滅の形にな

ってしまった。従って19世紀にも入ると早々から首里王府は地割制度を再び

公認して、その監督取締りに躍起とならざるを得なくなった。道光12年(1

832年)恩納間切仰渡日記によると「諸間切百姓地之儀各家内之有無見合、

不便之者共不痛様地割可致之地之処、地面広村々は家内有付居候者共地方少〈

持、不加意之面々は致持過、且地面少き村々は家内有付候者共地方多、不如意

之者共は少相持候故、上納物調兼及迷惑候等も有之由、右之通段々親疎之取行

故.威勢有之面々は猶々余財相増.困窮之者共は自然衰微之者に成行、追年疲増候振合之由相聞得甚如何之儀候余屹と右執行引改家内之厚簿に応じ致地割候

様可被取計候、此旨御差図にて候以上」またその翌々年道光15年(1835

年)に制定された「羽地間切万定之条々」にも同様の趣旨が定められている。「村々地割之儀段々被渡趣有之候付、家内厚薄に応じ一統無親疎配当仕置候に

付毎年村々、地割帳差出させ、侍過持不足之所能々吟味之上永々共少無親疎可

申付事」と為って、地方の狭い村々では、家族の多い者共が土地を広くもって

いて余財を多く積んでいっていると考えている。だから地主をつくらむいため

にも、親疎なき配当をせよという。結局平等に土地配当をなすべきだとする意

識が為政者にはつねに持たれていた。威豊3年(1853年)恩納間切御手入

日記によると「村々地割之儀田畑共上中下差分け組々銭取を以致割付、於組々

も右同断鋼攻を以て家内之厚簿、人居之多少見合せ分々に応じ持地可相授事」

とあり、地割の理想としてはどこまでも平等に地積を配分するということにあ

った。そのために首里王府でもその方針を堅持するために、監督取締の方針が

厳達されている。即ち、幕末期には「地割とは百姓の労力、資力に応じて耕地

を配分し、貢租の負担を公平にし.併せて土地の生産力を増進せしむるを目的とする、というふうに変質している。従ってこの目的が源初時代からあったは

ずはなく、最初は同族団が平和な生活を営むために.草分の大屋から分家に対して、己れの開墾地を平等に区分し、同族団が共同耕作によって食糧を生産し

た慣習が.時代の流れに従い、入居が繁栄するにつれて、地縁共同体にこの慣

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習は引きつがれ、特に17世紀以後は、薩摩の政略とからんで、貢租負担のた

めの方便や機構に変っていったものと思われるのである。(この例は南風原間

切本部村照屋村や大里間切南風原村・西原村にその形跡がある。地割は前述のように、

百姓地のみに限られたと思われるが.実際には百姓地のみでなく、村の共同管

理に属した土地すべてを対象としたものであった。にも拘らず百姓地が村民共

同の用益権を有したから記録も殆ど百姓地に限られている。この共同管理に属

した土地には百姓地の外に.地頭地.おえか地、のろくもい地.村の共有に属

する仕明地等すべて地割の対象であるべきであるが、大方前記の地積を村が借

受けて地割地の中に入れ、地割したところもある。(大里間切大城村、羽地間切真喜屋村がその例である)

地割地には、田・畑・原野。山林・宅地等があり、このうち宅地は持主が一定

しているので、地割換がある毎に叶米を査定するだけに過ぎない。山林は村の

共同管理(村山という)で、その収益は割当地の地積の広狭によって百姓に分

配した。ただ国頭地方には杣山という官林が多く、村々でこれを分割管理して

使用収益を許可されていた。威豊5年(1855年)諸間切勤職帳によると、

「田畑之儀恰個年振には厚薄段々出来致其上混乱之儀も可有之候間、其心得を

以而田方者4,~5年畑方者8~9年振.時節見合せ無親疎割直させ候割とあ

って、10年以内に割替を行なうよう指示されていた。

しかし実際には、地割替の期限は全く村々の自治に一任されていたので、村に

よって差異があったことは次表のとおりである。

8丘Flp

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'111J北F]」ルイ地割期

島尻

田 畑 111林

中頭

田 畑 山林

国頭

田 畑 山林

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年年年年年年年年年年年年時

901234568050

11111111223臨

881233

21

811645

61

2 11帖二9

111

5355

1 4317

50229

610

24

21111111

「地割替の方法」

地割の期限が近づくと.村の耕作当山当、頭、組頭、位所及び筆算人等が

集合して、地人会議の期日.議案を協議作製し、その期日に地人總会を開く。

地人総会(村揃、村吟味ともいう)には番所や村屋の役人の外各戸の戸主が参

集し、下記の事項を協議する。

①地割配当を受けるべき者の数、受けるべき地又は分の数。

②地割をなすべき土地の種類。

③地割地の現坪数の測定、又は各筆の小作料を見立てて評価すること。

④-地、又は一分の組み合せ方法o

⑤地割配当地の過不足に対する矯正の方法。

⑥地割をしない土地(竿はづれ地)の処分方法

⑦地割地受渡の方法.期日

①項のうち協議すべき事項は居住人のうち地人に編入すべき者の選定や、百

姓子弟の分家者の数調査.家族数.地人の勤怠状況等苛も地割配当の要素は細

大洩さず調査決定するo

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2項.3項、4項までは役人の調査によってほぼ決定され、地人が介入する余

地は殆どない。土地の過不足分の矯正方法は割合に簡単にすまされるが、若し宅

地に不足があれば、畑から補充し、田に過剰があれば、山野の配当を免ずるよ

うにする。僅かの過不足であれば統並を行なう。例えば地人總会前に役人は、

「土地一坪について宅地は何程、田・畑・山野であれば何程とその比率(小作

料に換算する)を決定しておく。だから地人總会になっても地人はおしだまっ

ていて、小作料の如きも殆んど役人まかせである。

毎年村で過剰の配当を受けた者から、その過剰分の小作料を徴収して、不足の

配当を受けた地人に給付するという具合である。

地人總会で前記の各項が協議決定すれば、各戸主は現地調査を行ない、調査が

終ると村で地割帳を作製し、期日を定めて再度地人会を開き、抽銭によって、

各組に土地を配当し、各組はさらに組中の地人を集めて、組に配当された土地

の割当配当をすることになっている。たまたま組の配当地の中から幾分かを割

いて、組中の特定のものに小作させ、残余を平等に配当する組もある。

この場合は小作地からの小作料はあげて、組中の年貢支払いや、組の諸経費に

充てることになっている。摩文仁間切小渡村の実例をあげると、

①明治29年5月1日地割期限がきたので、村役人(徒・頭・耕作当・山当

・筆算人)が村屋に集って協議し、来る5月14日を地人總会の期日と定め

總会の日には、各戸の戸主又は代理人が参集して地割に関する事項老協定した。

②地割協議が終ったので、各地人は直ちに村持の田、畑、山野を一々踏査し

てその坪数を帳面に記載し、各筆についての小作料を見積って評価した。

③評価が終ると村所に集まり、地割帳を作製し、名筆の縞評価を26地に分

割し、更に1地を8等分し、その8分1地を1分2厘5毛と称えた。

④畑はその地名(原名)により、上原嶽下原、たう原、あたい原の4つに

区分し、-区分の畑を各’0等級に細分し、水田、山野は村全体として上中

下の3等に分け、1分2厘5毛づつの組合せをした。

⑤土地の組合せが終れば抽銭で各地人に分配し、分配が終れば地割帳に各持

主の記入をする。(この村は組に配当するようなことはなく直ちに各個人に

配当する1村1血族の集落であった)

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⑥各地人は従来の持地数の多寡に拘らず.村から一様に46筆の配当を受け

るが.配当後は各地人の便宜上互いに交換分合を行ない地割帳を訂正するこ

とにした。

⑦地割地の受渡しは地域毎に期日を異にし、上原と嶽下原は8月までに受渡

すものとし、たう原とあたし、原は翌年の1月までに受渡しするものとする。

(このことはきわめて融通性があるが.親族のことであるし、話し合いによ

って作物の収穫後にするのが普通であった)

⑧村役人が地割作業をするのに8日間かかったので、その間の薪炭、雑費を

含めて2円70銭を支給することにした。

この例は、全琉略同様の方法であったらしく、琉球経済資料には、その精神

が明らかに読みとれる。道光12年(1832年)恩納間切仰渡日記による

と、

「諸間切百姓地之儀各家内有無等見合、不使者共不痛様地割可致之処、地面広

村々は家内有付居候者共地方少持不如意之面々は致持過且地面少村々は、家内

有付侯者共地方多、不如意之者共は少相持候故.上納物調兼及迷惑候等有之由

右之通段々親疎之成行故、威勢有之面々は猶々余財相増.困窮之者共は自然と

衰徹之方に成行追年疲増侯振合之由相聞甚如何之儀候条右屹と執行引改、家内

之厚簿に応し致地割候様可被取計候此旨御差図にて候」とあり、これによって

地割替えの目的が明らかとなり、威豊3年(1853年)11月17日恩納間

切御手入日記によると、

「村々地割之儀、田畑共上中下差分け.与々クジ取を以割符.於与々も右同

断クジ取を以家内之厚薄入居之多少見合、分々に応じ持地可相授事」、これに

よって地割替の方法がわかる。さらに威豊5年(1855年)8月兼城間切役

々勤職帳によると、

「田畑之儀拾ケ年振には厚薄段々出来致し.其上混乱之儀有之可候間、其心

得を以田方は4.5年.畑方は8.9年振時節見合、無親疎割直候事」によっ

て地割替の周期を察知することができる。宮里筑登之親雲上幸孝日記によると

割替方法を次のように述べている。

地割仕様右之通り

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1.地144地

大割地頭18人(但1組にて8地組合、98地組にては144地に相成候

右地割之仕様は1番配より、18番配迄.地方等分に置クジ取様は1番より

18番迄札書調.此札数置候て、地頭18人へ右札クジ取らし、番次第番之通り、

本仕手付原各村坪入仕置候帳に新にクジ当候面付相定申候.尤新帳には新に取

置候面付を以て新帳組立置申偽

但仕様右之通、此通18人組合帳相作得候事

1組

6地何某

1地5分何某

5分何某

1組

7地何某

1地何某

1組

8地何某

1組

3地何某

3地何某

2地何某

この記録によると、まず1村の土地を144地に等分し、さらにそれらの土

地を8地づつに組合せて.均等な18の組をつくる。これに1番から18番ま

での番号をつける。そのうえで18人の地頭(地与頭ともいう)が、各組を代表

して銭を引き割当地を決定する。そうして組々ではさらに銭引によって、各戸

の割当地を決定するということである。

第2節検地

検地とは、農業国家における重要な租税源としての土地について田制を統一

し、隠田をなからしめ、その確実な把握によって財政的基盤を確立するために

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行なう大規模な土地の測量評Ⅲである。その手順は土地の境界を正し、面積を

測定し、田畑の品位を定め石盛を行ないその土地の石高を定め、これを村毎

に集計して村高が決定されるのである。すなわち首里王府においては、土地が

もっとも重要な収入源であり、これを耕す農民が主要な租税負担者であったか

ら、慶長検地の際も徳川家康の意図をついだ島津氏も、豊臣秀吉の文禄検地の

際の間竿6尺3寸を1歩としていたきまりを6尺に改め、3百歩1段の制を用

いたo

ところが.元文の頃になると間竿6尺のきま、を6尺5寸1分としたために、

1反の地積が著しく拡張するようになった。

検地を行なうにはまず、検地奉行がその地に臨んで土地を側通し、その面積と

境界とを明らかにする。これを竿入と称した。

註文禄検地条目

1.6尺3寸の棹を以、5間60間3百歩一段と相定事。

1.田畑並在所之上・中・下能々見届斗代相定事。

1口米1石2付弐升宛其外役米一切出すべからざる事。

1京升を以年貢を納入いたすべし、売買並同桝となすべき乳

次に検地奉行は土地の肥溶乾湿の度を察して、上田・中田・下田・下々田の

等級をつける、これを位付という。

次にその土地の収益を米に換算し、斗代の法によってその分米をはかり数字

で表示する。これを石盛という。当時上田一反の収穫は籾で三石と基準をきめ

ていたから、5合摺の法に従って米に換算して、上田一反の分米は一石5斗が

とれ、これを15と表示して上田の石盛とした。中田以下の石盛は俗に2つ違

いと称し、上田の石盛よ'')2つ宛逓下するのを原則としたから、中田は13、

下田が11.下々田は9であった。畑地の石盛は中田の石盛を以て、上田の石

盛に准用た。

以上は、検地の一般原則とされたものであるが、琉球検地は慶長16年9月

19日の御目録によると、「御当国之儀慶長14年御国元御下知に相成候に付

て、同15年初御検地被仰付竿入奉行14人携之役々168人被差渡、地下諸

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離島、両先島、道之島迄御手分を以、地面之御支配有之.同16年御目録被差

下侯、寛永6年右御目録高減少被仰付置候処.同12年盛増高並上木高共御取

立御目録被召改、其以来御高之増減無之候、享保7年御国元、就大支配、御当

地にも御検使被差渡由之仰下侯右に付翌年御請並年延之御訴訟被仰上候処d年

数被召延候ては御支配の御支に相成由にて御検使は御免被成、寛永盛増の半分

増高被仰付、寛永12年御目録被下候、地面引並之儀は時節柄御見合憲法に致

支配、其御首尾方可被仰被仰下侯、依之元文2年より地方御支配御取付宝暦元

年迄御成就被成候、然処冠船前差掛候に付句新帳御行之儀は時節柄御見合を以

被仰付由にて、御延引被仰付置候、御当国御検地之次第如恥

1.慶長16年御目録被召下候事

右通御高御取立是を御知行高と〆御目録被成下候b

悪鬼納並諸島高89,086石之内5万石は王位の御蔵入可被相定侯、残分は

諸士へ可被配分候、

支配之余分は王位之御蔵入に可被呂置候’価て,状如件

慶長16年9月19日

伊勢兵部之輔

比志島紀伊守

町田勝兵衛尉

樺山権左衛門

三司官

西来院

この史科による検地目録によると,国王領高を89,086石と明記し,そのう

ち王位蔵入を5万石,残余は諸士配分としていろ。にも拘らず検地の方法は具

体的に示されていない。そして高掛りの納物だけを決定し,方法は薩摩の例に

ならい,間竿を6尺5寸1分とし,高も籾一石5升を一石とした旨を示したに

過ぎない。その上高桂W勿を芭蕉布3千端,上布6千端下布l万端,唐芋1300

斤綿3貢,椋梠綱百万(方は束のことで,長さ60尋の意)黒綱百万b莚a800

枚,牛皮200枚と決定しているが,この員数も何を基準にして決めたものか

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不明である。おそらく推計によるものであろうか。そこで薩摩側では,以上の

員数の物納は困難であるという沖繩側からの具申によって,これらの現物の調

達が困難ならば詮方なしということになって、翌17年3月廿日(20日)指令して「上

納なり難き物品,算用次第何色にても代納苦しからず」と達してきた。しかし

無い袖はふれまい,沖繩側の難渋を見て,翌18年から「薩摩への貢納はすべ

て銀納とし、銀32賞に変更すると命令しべさらに元和3年(1617年)からは「藩内諸

士の高掛り出物出銀に準じて-率に高一石につき出銀8分とせよ。」(但し米

納を許す)としている。何れの手段方法にしても,沖繩にとっては容易ならぬ

負担であったことは事実である。この1情況を仲吉朝忠は次のように記録してい

ろ。(琉球経済資料)

「出物之儀慶長16年上木上革之為納,はせを布,上布下布,唐芋綿子迩赤

黒之繩,牛皮上納被仰付侯処,現色難調段依御断,慶長18年,代銀3拾2貫

目づつ被仰渡置侯,元和3年右代銀は被召留,高一石に付銀8分づつ出物被仰

渡,銀子にては可難調候間,米を以可相調侯,右米之儀御国元より船可相渡候

間,可積登由被仰仇元和6年出物分量之儀は年々御究可被仰渡由有之,其以

来多少御座侯処,宝永6年より高一石に付,8升壱合づつ運賃相添,壱斗壱升

4才に相究,惣高に相掛け,御蔵並知行衆より仕上せ有之候」,すなわち宝永

6年(1709年)から(塙一ラ石につき米8升1合に運賃をカロえて、1斗1升4才づつ上納す

ることになったのである。(この高というのは籾高であるが,薩摩側の都合に

よって米高にする場合があって一定不変のものではない。)以上は本出米のこ

とであって,この他に賦米と牛馬銀出米とが加えられることになった。いま享

保目録高による出物の内訳を見ろと,

享保目録高94,230石7斗O升O合9勺4才

本出米内訳10,369石1斗4升6合3勺3才

出米7,632石6斗8升6合7勺8才

運賃21736石4斗9升9合5勺5才

賦米1408石7斗4升8合9勺8才

(霊鶇三石に鱸鰯:臺鰯え,升姶川万という[60

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とである。)

牛馬銀代米156石8斗5升5合0勺7才

内訳

牛馬銀代米115石4斗6升2合7勺6才

運賃41石3斗9升2合3勺1才

生馬出米は寛永12年(1635年)より.-疋に付銀2分5厘の定である。その後2分

に変更し,牛馬22,987疋に掛け,4貫597匁4分,但し米で琉球より登し,

鹿児島在の琉球仮屋より銀納せしめた。

以上合計11,934石7斗5升O合3勺8才

いま仮bに目録高が内高に等しいものと考えられば,米高で45230石7斗3

升6合4勺5才という勘定になるわけであるから,そのうち約1万2千石とい

う出米は惣高の4分1以上に達するということになる。(この数字だけをみる

と,薩摩側は余計な収奪はしていないと評価する向があるが,4分のl高の内

容を検討すれば,これ力湛だしい酷税であったことは明らかである。)

すなわち以上列挙した資料から判断すると,琉球検地は,検地の精神を滅却し

た全くの政略的なものであって,土地の丈量の如きも検地条目に則ったものと

は思えない。さればこそ琉球高は慶長16年検地後鳳変動をかさねあまつさ

え寛永12年(1635年)及び亨保12年(1727年)の薩摩、大隅、日向の内検の際に

は.時節柄多額の費用加塾かると称して勝に琉球の丈量行なわオじずくそオピぞれ百石当り

7石3斗6升5合1才及び3石6斗8升2合5勺の盛増を行なう。」といって

いるから,少なくとも享保頃までは目録高と内高との差異はさほど著しいもの

ではなかったと思われる。だから前記の内高に対する出米の比率も概ね真実に

近いものではなかっただろうか。にも拘わらず薩摩は検地丈量による出米l蔵課

という強制政策とならんで,琉球を軍事占領という強い,支配隷属関係におい

ていた。すなわち国王尚寧及具志頭王子以下百余人を人質として引具し,2年

以上にわたって引廻していろ。(喜安日記による)この間琉球では奉行本田親

政以下による軍事的支配が強行され,百数10年に亘ろ中国南方との貿易によ

るさまざまな珍宝をかすめとり,薩摩国の政策特に国内法による政策を強行し

ていろ。最も上国中の尚寧一行は表向厚遇はされているものの,碇15個条の

61

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承認を強いられた上,島津氏に対する忠誠を誓う起請文をとられている。、

鯆蟹纐灘襲峻謡ILlj五J:三三許:鷲除いて鉄砲刀剣の所揃§厳禁されたほか,国元からの武器輸出も一切禁止あれ

ていろ。この隷属政策を裏書するように,薩摩軍の一部の者は.国玉司寧帰国

後も依然として現地に留まり、圓蕊的繍剖に任じ.寛永8年(1631年)正三qと在番奉行及

び在番士となり,琉球を威嚇し,施政を意のままに行ない,琉球内における経

済上の搾取を敢行し,貿易上の利益はそっくり横取りする。それを余すところ

なく収奪するために貿易に対して厳重に監視監督していくのである。検地にし

ても琉球先竿以後数次にわたって自由に改訂を加え,結局83,085石余の高と

し,略,手直し力荒了したと見るや、寛永11年(1634年)5月.幕府に対して、検地の

結果を報告した。幕府は取敢ず,同年8月4日琉球に対して,「12万3千7

百石伏島を含む)を異議なく預知すべし」という指令を島津氏に交付している。世Iこい麹

21迎這Lとはこれである。前述の資料に見えるように,薩摩側にしてみろと,実

際に琉球の検地をしたわけではなく,机上の手直しであったから,翌12年(’

635年)には,その理由書として,「実租入が御朱印高に達しない。」とし

て,敢て税率を変更し,琉球に対して新たに上木税と牛馬税を課し,これを石

盛に直して本高に計上することにした。(前述の高参照)その結果惣高94,230

石余となり,そオTでもなお不足を来たしたの五享保7年(1722年)には一石lとついて

5升の割増を行なった。この際の石盛の根拠になったのは次のとおりである。

人口川M3人妻57β85人牛馬皿川疋篶'議驍

とP、数字がまたどオlj圏膣実性を有しているか、きわめてl識Hである。察温力触!#嬬を書いたのが寛延2年(1749年)でk享保7年(1722年)から約25年後にあたぁそのときの

人口を20万人と推定していろ。しかも享保7年の人口が薩摩側の計算による

と,約12万9千人であって,当時の人口増加率では25年間に8万の増加(5

割4分の増加率)があったとは思えない。(前記察温の計算によると向象賢時

代の人口が僅かに7,8万とある。)との記録からすると男が女よりもはるかに

少ない。(これについて東恩納教授は男が少ないのは,唐大和の旅微;頗る頻

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繁で且つ危険を伴うもので,男の損耗の一因はこの辺にもあっかも知れないと

推定されたことがある。)そして察温時代に人口が急速に増加したものとする

と,察温の政策が土地の培養や生活の興発に重点をおいたからだ,」ともいわ

れた。しかし氏の推定が正しいとは思えない。(南島風竺上記)それは(おそら

く享保7年の人口中女子が高いのは,可働人口中女子が高いところからの推定)

であろう)斗量や税法についても,その用語が示すように大方慶長検地の際薩8鴎

摩で用いられていた慣行をそのまき採用したらしく,地券のことを差出とし、い§ようばん

桝を京判と唱えている。税法用語も慶長倹地の際に使用されただろうと思われだし、おし むニしさきとうだて

ろ,代押入(tul押)起,先,斗立轍:そのま&使われていろ。すなわち,代押

入とは在来の石盛をそのままにして土地の式量を行ない,新反別に在来の税額

をそのまま付出した場合,すなわち反別は改正されても,税額はそのまま据置

ということになる。沖繩では慶長検地によって各村の石高がきまったので,従

来各村で納めていた税額をそれぞれ今度の石高で割ったのが,代押入であり,

新税率はこの代押入を石高に掛け,それ老起とし(起本の意),それに定率の

付加額すなわち「一石につき1斗2升を加えたものである。例えI塙二石の場

合代押入を一石に5斗とすると,起が-石,出米1斗2升〆1石1斗2升これ

が新税額となるのである。こんなしち面倒なことを農民個人毎にやったのでは

たまらない。幸いに従来村毎に畝割帳ができていたので,測量とは,おかまい

なしに作製した名寄帳を地割帳にすりかえ,結局新税額も従来の村単位に作製

された地割帳の地積を基礎にして税額を手直しするという程度の作業ではなか ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄①● ̄■ ̄ ̄■ ̄●●巴●● ̄

っただろうか。これは検地帳と地割帳を1士較すれば凡そ判明する。(傍点筆者)

○琉球国都之島平良間切松原村御検地帳(慶長16年)

高千3拾6石9斗9升5合8勺9才

おきひら下田拾5歩4斗島尻のてくこ

中ほたら上田1段3畝1石5斗6升松原用入

ほうきぴら荒田l畝6歩6斗みや立のおんはつ

ほうきぴら下田l畝2歩8升5合3勺3才みや立ののちで

ほうきぴら下田l畝2歩8升5合3勺3才みや立のまうとこか

ほうきびら下田20歩5升3合4勺島尻のてく己

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下田2畝拾2歩1斗8升島尻のてくご

下田2畝24歩2斗2升4合下地の首里大屋子

中畑2段1石2斗出口の松まさり

(琉球の地割制度一史学雑誌)

ほうきびら

ほうきびら

みやのかくし

○東恩納村地割帳(威豊2年壬子)

地百44地右の内

本地拾地たうの屋島袋筑登之親雲上

一地82地(重内22地)

○本地4地5分前んたうの屋平良筑登之

本地7地(重内2地5分)

○本地6地

同5地5分仲ノ屋登川筑登之(引入外5分)

○本地5地

同5地新屋ノ屋まい石川

○本地3地5分

同4地5分(重内l地)とんとうノ屋石川親雲上

○本地8地5分

同4地5分(重内1地)仲んとうの屋仲宗根筑親雲上

○本地5地5分

同4地5分(重内1地)上間ノ屋女かな引入外1地

○本地2地2分

同4地5分(重内2地)東ノ屋女まかと

○本地3地

同4地5分(重内l地5分)屋良ノ屋前渡ロ大屋子

○本地4地

同4地5分(重内5分)平良筑登之

○本地4地

同4地おうぐの屋こら平良

○本地5地5分

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同3地5分(引入外2地)松門の屋かめ登川

○本地3地

同3地5分(重内5分)仲村渠の前登川筑親雲上

○本地3地

同3地おかい小の屋登川筑登之

○本地2地

同2地2分5厘(引入外2分5厘)蔵んたうの屋平良筑親雲上

○本地2地5分

同2地5分新屋小CD屋かまと登川

○本地2地

同3地(重内)l地いり小の屋まつ仲宗根

○本地l地7分5厘

同2地(重内2分5厘)長屋の屋平良筑親雲上

○本地3地2分5厘

同2地(引入外)l地2分5厘前門口の屋登川

○本地2地

同2地さくたいの屋こら日震

また先島には絵図帳というものが作られたことがある。これによると慶安2年

(1649年)11月5日

「正是,寛永21年(1644年)所命領国,薩,隅旧,琉球国之図,並日州伊東大和守裕

久,有馬蔵人康純秋月長門守種春,島津但馬守久雄之領土以4秀斬献之地

図,浄書焉,以今慈慶安2年11月5日,献呈両奉行井上筑後守政情,曾我源

左衛門干江府英。

とあるように,幕命によって作成された絵図帳は,慶長検地同様の内容をもつ

検地事情であったと思われる。(19M年4月南島史学一喜余場一隆論文〕これにエると

○宮古島絵図

平良間切

L高3千3百拾石7斗壱升4合8勺3才但内書表2勺不足

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高4百4拾3石7斗8合3勺6才いきやたら村(にきやとら村)

高5百4拾4石5斗壱升5勺6才西中宗根村

高7百4拾4石2斗6升5合5勺9才東件宗根村

高5百4拾壱石2斗3升4合6勺3才下里村

(慶長検地高と絵図高とは一致する)

○高千3拾6石9斗9升5合8勺9才松原村

下地間切

L高3千6百7石9斗5升5合弐勺6才

高4百6拾8石9斗9升4合2勺7才上地村

高千4百6拾壱石2斗1合5勺8才川満村

高千弐百9拾壱石弐斗2勺9才洲鎌村

高6百弐拾石3斗4升5合6勺3才与那覇村

高6拾6石弐斗壱升3合3勺9才くれま村

おろか間切

L高3千3百8拾9石3斗弐升6合弐勺6才

高5百拾4石弐斗9升6才ミヤ国村

高4百6拾壱石4斗壱升5合7勺5才新里村

高8百3拾8石9斗6升9合4勺おろか村

高6百8石6斗8升9合5勺友利村

高2百9石壱斗2升2合壱勺中きや泊村(この村元無之侯原屋の事か)

高5百38石3升8合5勺4才きんす川村(友利元島か)

高2百18石8斗8勺8才ひやくな村(この村元無之候原屋の事か)

かりまた間切

L高’千5百7石4斗壱升7合9勺3才

高2百m石3斗`升姶,勺3才根井間村(烏二ご鰯鱒た村島尻高7百M石6斗9升5合9勺3才かりまた村

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高2百48石6斗6升7合5勺3才嶋尻村

高2石6升4合3勺5才大神村

高2百90石6斗2升7合壱勺9才池間村えらぶ嶋

高2百54石7斗8升7合7勺壱才内

高百拾2石壱斗9升3合8勺3オ久貝村(伊良部村か)

高百拾妬,斗8升』合,勺壱才国仲村二烏二二露鬮周辺高拾9石8斗9合8才西村(佐和田村か)たらま島

みつな島

高3百38石5斗9升5勺4才

高3百32石3斗6合8勺3才たらま島

高6石2斗8升3合7勺壱才為つな島(みんな島か)亥4月21日

名苅在判

見里

遠竹軍介在判

築瀬清左衛門〃

大脇民部左衛門〃

鬼塚源左衛門〃

註一(加空の村をつくりたてて,検地帳の項目に強いて充てようと企たところに凧上の手直し」という疑問をもたせるのである。

○勝連間切南風原村地割帳

壱番勢理容原山野412坪3合

南長7間7合(7番入)

西は肌間

東は37間

北は25間

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坪3升牧内又

弐番口原8百43坪

南長拾間(13番入)

西は6間2合

東は17間

北は18間3合

坪3升ます親田

叶2合8勺6才

参番きぐ山原山野2百6坪6合

南長9間3合(15番入)

西は15間

東は18間

北は16間

坪3升東親田叶4合5勺3才

四番ロ原山野8百35坪7合

南長14間6合

西長10間8合(12番入)

東長9間4台

北長13間

坪3升ます親田叶3合3勺6才

㈲東西。南。北の間数と坪数は合致しない,何番imZD地積が入り込んだからだとごまかして地割帳上に記載している,現在の原名の地積とは大変な相違である。

名寄帳反別と竿入帳反別との比較(明治17年8月大

蔚ljJ-三T百塁-1KJ幸Ti寝|幸フ(i晨瑁i義「言譽葹入帳 竿入帳増減 竿入帳r1

L」 j9416.03014.936

Ⅸ186 、6

390183Crl

L」 5011.8

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壁武仁原里敷念城平頭原湾城川連城添谷山釆里納護部仁武志

屋文風

風志野志那

谷帰

真喜摩南大佐知玉東具西宜中具勝与浦北続越美恩名本今金久

377

172

772 395

169

1.268 3,064 1.796

11 1.002 2,782 1.780

341 1.008 2.403 1.315

779 1.576 797 1.072 2.840 1,768

1.043 1.557 514 1.461 4,710 3.249

731 1.109 378 686 2482 1,796

蕪’967417 550 1,060 2,142

734 1.918 1.184 848 2.923

1.000 2,062 1.062 950 3.726

563

1.370

526 1.089 1.8571.247 3.LOi4

1,522 2.892 2.5191237 3.756

984 3.3551.676 692 3.128 6.483

1,350 2.592 1.242 3.1022.099 5.201

2811886 1.425 4,4613.441 7.902

354334 20 1,5761.514 3.090

327329 1.1061.521 2.627

931 1.635 704 2,4551.906 4.401

506 1.597 1.091 4.2252.859 7.084

336 761 425 5.7032.8696.166

620 1.687 1.067 3.7221.478 5.200

1.149 2.448 1.299 4.0482.543 6.591

1.494668 826 1.276405 1.681

847 3.424 2.577 894445 1.839

415 1.003 588 2.7732.917 5.690

781 1.773 992 3,2072.784 5.991

712 1.495 783 1.550392 1.942

554 1.049 495 1.081219 1.300

羽地

大宜味

1.893 4,792 2,899 1260244 1.504

433 1.167 734 221106 327

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1,647 1ユ44 469 704 235

表から註釈を加えると.本釆名寄帳は竿入帳aj反別を基として,村毎にその土地

の所持者と地積の広狭を記載したものであり,厳密な測量によるものであれば

両者の反別は一致すべきものである。にも拘らず表示された通 りの差異があっ

たとすれ塊 これは明 らかに経済外的強制が烈 しかったことを証するものであ

り,明治17年以前に整った地積を旧慣法に基づくという名目でこそのま 記ゝ録したも

のに相違filLbもっともこの竿入帳は事陳7年(1722年)薩藩の命令に基づき.旧藩芋に

於て元文2年(1737年)より全体の丈臣に着手し.寛廷3年(1750年)に至って終了し

T=ときに出来た帳で.各間軌こ区分し.田畑軍人帳・山野針竿振・田畑臣敷山野針竿帳,

惣方切並宿直針帳,印土手帳の種類があり土地に関する帳簿の中の最も粁密な

るものであるといわれている。にも拘らず検地の結果反別が増大した と称して

いるが,この表に示すとおりの杜撰な竿人であって,農民に承服できるもので

はあり得ない〔のみならずこ れによって増租を命じてきたので,思い余った首

里王庁 「これでは到底民力の堪ゆる処にあらず,」と抵抗を試みたので,薩摩

側では 挿 話の事実は将釆改正すべし,」とし,遂に実施する機会がなかった

といわれている。しか し農民の心理ばかりは全 くはか りしれない。首里王庁で

最も正確に測量したものであれば卒先 して増税に応ずるのが筋であると称して,

首里近郊の美和志間切,南風原間切,西原間切では,早速測量通 りの地積をも

とにして,地割帳がつくられた形跡がある。

註- (もっとも前記三間切は王庁の納 間切であったからであろうか)

(拙著南風原村史 )

しかもこの元文検地帳によると,薩摩の門割制度の用語を借用して使ったであとうだて とう JWr)

ろうと思われる用語が多い。たとえば斗立についてみると,本釆三松 字は計のlよかりr_lて

草体か ら崩れた字で,ih 升,合の斗ではないか ら,斗立も計立と続 むのが正

しく,薩摩では計立と読みならわしている. これは本石盛に込米を加えたもの

で,本石に余米を入れて,石高が増す場合に限 られているのは,この実例であ

ろうと思 う。上木税につして も本釆沖縄にあったものではなく,語句そのもの

も元文検地の際使われたものらしく,農政本論にも 「上の立林の下草を村方に{J(̂L.

於て刈取る役永,前々より定納 と成る小物成の内也」とある。 (南島風土記 )

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。物成というのは付力脱のことで役永は銭で納める税のことである,すなわち

立木の下草を農民に与えて,その代り若干の下草税を徴収するということで,

この立木の下草が刈敷と同様肥料となり,牛馬の飼料となったので,農民にと

っては若干の下草税を納めて収穫を増すことができた。これは文字通り浮動税

すなわち臨時の課税で、その数量なり,有無なり.変動の多いものに対する課税

である。舟網塩等の加きがその対象である。例えば長禄(1457年~59年)の頃iiI物蝋i

できプ功御|勿城からつづく壷Ⅱ|村の漁民が泉崎の仲島d堀に漁類を養殖して,那覇里主

や御物城の用度にあてて,年間4百50貫文の浮得分をあげたことがあった。

この頃は河海の漁獲物にも十分一課税をしたということであるから,十分一税

で4百50貫文を得たということは,この付近の漁獲が大変なものであったこと

が想像されろ。また旧慣地方制度6項の海中取締りの部によると,間切,村の沿

岸の漁拷区域を海方切といい漁携の境界が村々に設定されていたことが明らか

である。

L海方切(間切所轄の近海)内に於て他間切の者漁業する者は舟網,道具等

引揚げ科銭申付,以後右様の漁業不致段証文を徴収の上舟綱具等差返す。

1,他間切の者海方切に於て魚貝類を採取する者は逮捕し,直ちに本籍の村屋

へ引渡し科銭申付く。とあり,またオモロ15巻49と14巻17にはそれぞ

れ,次のように唄われていろ。

じゃなのひやりよぃ、

いぢへきひやりもい

かなであんじにおもわれて

又うみt,お雲やもん

だきやむおやもん

うみちへえれ,おかちへえり

おなりあじ

うみらへまは,おかちへまは

えけりあじ

とあり,海も桜司の所有である,だから漁獲場にも領主があって,その領主に

貢物を差上げていろ。ということであるから,その領有権を譲渡するという事

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が行なわれていたに違いない,,この事実はおそらく検地以前の地分耕作時代の

沿岸の海分け方法であったし,検地とは直接関係はなかった、その結果であろうみIMIえ

うか,沿岸漁業での十分一税を納めていた間切,村で|j耕地の年貢から,うみが

なえを差引いて納付するという機構があった。すなわち耕地と同様に沿岸をも

つ村々では村単位の地割(海方切)があったことはほぼ明らかである。例えば

兼城間切糸満村,具志頭間切具志頭村佐敷間切古波津村,仲伊保付大里間切与那

原村b中城間切津波村b美里間切泡瀬村,勝連間切平敷屋村等にその形跡が残

っている句

第3節斗桝

検地に伴う貢租問題について,新里恵二は次のような問題を提起されたことが

ある。(考える沖繩史)

①琉球王国の石高は籾高で,これを米高に換算すると目録高の2分の1強に

なる。

②薩摩への仕上世米ZD運賃はいわゆる3分8運賃で非常に高額である。(3

分8とは貢租額の3割8分の意)

③俵装の際1石につき1斗9升の増米があり,貢租額に加算するので薩摩へ

の貢租が高率であったことを証する。

④運賃増米を加えろと,負担額は1万4千8百石にあたる、

この負担額は貢租全体でみろと僅少のようにみえるが,その収取と計量によっ

てみると実に莫大な額に達した。(里積記一比嘉春潮氏蔵本)まず斗桝について

みろと,寛永以後次のような桝が使われ,収奪の具に供せられていろ、

1,京桝

2,-合桝

3,弦掛桝

4,7合5勺桝

5,宮桝

6,公桝

7,2斗8升桝

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8,細口桝

このうち京桝は内法4寸9分深さ2寸7分,坪数6万4千827坪あり,坪は1

分4万6面の坪という。しかし本土の京桝に比べると遙かに大きい。すなわち内

法を5寸深さ2寸7分5厘の桝であるから,坪数においても幾分大きく,その

京桝を使えという厳命であるから,琉球側の損失ははかり知れないものがあっ

た句

--合桝は京料の十分一の坪数というから,本土の標準一合桝より量目が大きか

ったことは明らかである、これについて里積記は【欠のように記している。「こ

の桝寸法の儀本分の通り,或書物より写置候処,現桝にて肋b合候えばl合、、、、、、

桝にて内法2寸1分3厘有之,深さ縁共l寸4分2厘9毛有之,坪数は当り候

故向赫走法にそ候補当禾串侯」とあり,京桝が薩藩の命によって使用され

ていた頃これと殆ど坪数の同じ桝が琉球農村に使われていたらしいことが明

らかである。表示すると次のとおりである。

京桝の一合桝①内法2寸2分7厘4毛

②深さl寸2分5厘3毛2シ

③坪数型83坪7分

琉球一合桝①内法2寸1分3厘

②深さ1寸4分2厘9毛

③坪数M82坪7分

絃掛斗桝は一盃で1斗l升5合,2盃で2斗3升也。それに京桝5升入都合2

斗8升にてl俵の積り也然、u飛入の時は2盃に小桝5升入侯得ば,入実小桝に

て2斗9升5合有之,夫に2合5勺は船中乗せ卸し,次に〆相加へ都合2斗9-。●

升7合5勺入実に〆御国許え上納米届,運賃とも相渡申院然共飛せ入の儀手

功次第其上にも入込祷枕,但この桝は御国許より差下し被置間切々々両先

島へは写を以て御渡被置候,尤j卸当地中にての取払には用い不申候也,

御当地田舎々々に於て7合5勺満す相用い侯|義も有之由焼この」ELと乏上、盃

と言い,40盃にて3斗先1俵の積也,39盃までは,何十何盃という。40盃に

成候は管,俵と言い40盃に余り申すときは'俵(可盃と言う也,議雛Iこそほ●、b

無之候」。すなわちこの絃掛斗桝Iま沖繩でできた桝で,形を京桝に似せて造I),

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手功次第によって量目に大きな差をつけるため絃掛を行ったものといえる。

官斗は唐人へ向けて用いる枡で,京桝の5合の積りという。察するところ中国

や中国向けの進貢物資を換算するため,中国貿易公枡とは官斗と同じく、5

合桝といわ松内法8寸8分9厘9毛。深さ2寸1分3厘2毛1シ6才。坪数にして32,413坪5分で,すなわち標準桝である京桝の半分にして,専ら沖縄

内で使われたものらしい。また「2斗8升満すといって田舎に有之侯。この満

すにて28升をはかり。起は京枡にて8斗也」とあり,だから京桝で[京満す

’升7勺1才4分2厘8毛5シ7才入る」というから,国法ではないというこ

とが明らかである。おそらく3斗8升桝というのは,田舎の米産地で使われた

桝であったと考えられろ。

細口斗枡というのは1盃で1斗2升5合入、2盃では2斗5升それに小枡3升を

入れて,都合2斗8升でl俵となる。「5振すれば2盃で2斗8升であるが,

手功次第によってはそれ以上も入るといわれていろ。但しこの枡は御国元に申

出て許可を得。沖繩で製作し,当地中に用いる枡であるが,沖繩内で使うもの

であるから自家製造のものであったらしく,結局量目に大きな差異が出るよう

になり,次のような指令まで出すようになった。「御当国中相用得候斗之儀□

広く有之手功次第升目相替候付,引落斗之法様相立置候得共,夫;1h段々手功有

之,不憲法取納致し,百姓疲入由候,升目之儀は別て正道に無之候て不叶儀侯

処,手功出働有之儀甚以不宜候,依之御国元御伺之上入実の儀は振込入にして

先掻1斗4升込之p細き斗に相改,国中取締仕候様,雍正7年酉年被仰渡候納劇

附端物払之儀小升可相用侯也

(明治7年)原宮古島仕上世座公事帳

さらに貢租納入順序として次のように指令されていろ。「仕上世米俵入出義康

熈55年仕上世座附衆東郷三右衛門跳久保田善右衛門並座検者我那覇親雲上、

阿嘉親雲上其外相携候役々又は諸船頭出合相例,錨轆にて飛川盃に小升5升入実先掻2斗9升7合5勺船中乗せ卸入鉄迄相込。右の升目にて船頭落着

之上相究届。運賃共相渡其以後右例相定置候間向後其取払可仕事

附康熈52年新米立船起年に付積穀取納方之義積入候時渡付置侯升目之通可

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致取納候(血。

(明治7年)原宮古島仕上世座例帳

これより先安政4年八重山島には,上納米の斤目升目を過分に上納している由,

法にかなうよう請取れと指令していろ。すなわち「穀物諸雑物取納方之姻っ升

目斤目憲法に取扱候様にとの儀は,跡々より被仰渡置候処,連々緩せ成行;穀

物諸雑物不憲法に相請取.就中仕上世・所遣両座納穀1俵に付斤目8拾2斤の

御定候処,段々斤目過上納致し,百姓等及迷惑侯由甚不可然事候条,向後御法

通向々都而の取納物惣横目検見之上,升目斤目憲法に相請取,左候而惣横目端

書之請取書相渡,厳重可致取締事」

安政4年原八重山旧規書類

以上の記録によって細口斗キリhh絃掛斗桝がいかに不正確なものであったか想像

される。然らば薩摩藩は琉球進入当時定めた碇15条に「日本の京判升④外用う

べからざるの事」と令していながら,琉球内で容量の違う枡の使用を許したの

はどういうことか。絃掛枡は琉球内の収取計量には使用されず,専ら薩摩藩へ

の仕上世米の計量のみに用いられた。はじめのうちは絃掛斗枡2盃に小枡5合

を入れて2斗9升7合5勺と計算されていた。つまり’盃では1斗2升3合7

勺5才とされていた。ところが里積記によると,絃掛枡l盃は1斗1升5合と

明記され,飛せ入のときでも1斗2升2合5勺しかないから「船中上げ下し欠」

として2合5勺の追力肋iあるべし、と命ぜられている。こうして里積記もさすが

に「飛せ入の儀手功次第其上にも入込候事も有之候」として,’俵の実際の容

量が2斗9升7合5勺を越えることがあり得ることを認めていろ。

こういう次第であるから貢租が増加してくると,農民は斗枡の手功によって,

重租老遁れようとする。とたんに大和横目や地方番所の枡取は容量を測定して

その不正をあばこうとする。これでは農民の立つ瀬はない。挙句の果に,地組

も分解し己れは身売して急場を凌ごうとする。しかしこれも惣地頭の許可を得

て身売せようということであるから,農民の生きていく道は誠に厳しい。止む

を得ず大方の不納農民は地離れに生涯流刑人の悪名を背負って生きていかねば

ならぬようになる。

闘広ロ斗桝は斗掻の手法によると-升から一合以上掻取られる,しかし細口斗桝で

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}ま正確に量目がきまる。

第4節原山勝負

慶長検地以後沖繩には,重税に加うろに年々増税が指令されてきたのでその対

応策として農民の勤労に対する強化法を制定していった。例えば農事監督,農

事指図方が次第に詳細に法定された。しかしこの法令も役人を通じての強制化

は,享保以後になるとそろそろ空文化する実情にあったn勿論当時の間切総地頭などが,法を社会との関係においてみたかどうかは疑問であるが,少くとも

法の行なわれ難い面があることは彼等の体験を通して知られていただろうと思

う。そこで地方役人の監督や農民の不都合に対する打開策を講じつつあったこ

とはほ晋事実に近い。すなわち農業監督や地方行政の最高機関である総地頭ウヌ

奉公人を自由に馳駆し,また献上物をとったり,オエカ地からの役得や,間切

役人が年貢の2重取をして役得とするような組織や機構を改廃することや,直接担税の負担者である村々に農事競争を助長する方法を講じたのが,すなわち

原勝負制度であった。例えば本部間切村内法によると,晦年春秋両度原山勝

負トシテ山林仕立及田畑ノ耕作,屋敷道路ナドヲ検査シ,怠り手後レノ方及本人拾間ニッキ2銭ヅッ科銭申付候事,」とあるが,伊江島村内法によると,本部間切と略同様のことを規定しながら,「従前科銭ヲ直チニ酒代ニスルノハ,酒呑ガマシク,農民二悪影響ガアルトシ元原勝負ノ時役人ノ気付二差向ハセ

ルベキデアル」と規定している。また大宜味間切内法によると,悔年春秋原

勝負の儀地頭代捌庫理,惣耕作当並各村夫地頭,徒,与頭、耕作当まで出合手配

を以て廻見致し其仕不足取調勝負致し,1日例の通り,勝の方は上座に居しり褒賞として間切より焼酎3升相添え,負の方は下座に居し,勝の方へ-礼致きせ

申侯,尤も仕不足取立科銭の儀一分に壱銭づつ申付則々仕配方仕申侯_|,とあり続谷山間切内法によると,「春秋両度各村田畑屋敷迄,F1]役検者tl顕代以

下村匪耕作当に至るまで巡回致し,田畑耕転取荒し且道路破壊。溝渠泥土相畳

子b屋敷j弘除,監垣植付届かざる者は,すべて1坪につき本人2銭ずつの過

金申付け,尤村捷惣間は坪数の多少に無構61人に付4銭づつ,耕作当は8銭

ずつの過金申村候事」(但過料金は勝劣仕分諸入費へ支配すo)また美里間切

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内法によると,

1,ソテツ定数表植付無之村'、村捉へ40銭耕作当60銭p、過料金申付侯事も山野開地村ハ

村徒20銭、耕作当40銭if鋼金申付候事(但過is礎は原勝負仕分時Iと支払申侯,

L荒田畑1坪2付2銭宛道路破壊,屋敷払除溝上↓冗垣担等届兼候処は1間

につき1銭宛過料申付侯事,(但過料金は原勝負仕分けの時支払申侯)

真f「志間切内法によると,「春秋2度原勝負の時田畑の耕作,屋敷内外の掃除

後道修繕を検査し,不行届の者は田畑屋敷人夫6人仕事に,科銭30銭後道は

1間につき2銭づつ料金申付侯事。」とあり,以上を綜合すると,原山勝負と

は,儂事勤労促進の方法であり,同時に役人の巡視取締。指令等の締くくり

ともいうべきものである」。すなわち各間切,村毎に年貢の怠納をなくするた

め,勤労を促進し,増産と生産物の保全,山野道路の保全をなすことに,原山

勝負の目標があったことは事実である。しかも原山勝負の内法中巡視は田舎方

式制定前からの田地奉行の析々の見廻りに発し(田地奉行規模帳)ていて,こ

の役人の巡櫛;原山勝負に採り入れられたことは明らかである。すなわち田地

奉行規模帳が制定されて間もなく,ムラムラ間に原勝負の方法が発生したよう

である。この事情については,豊見城間切の座安親雲上が地頭代のころ(文化

11年18M年)各村に下知人をおいて,4月8日の田地奉行巡検の日に先

だって,村々に競争的に仕事をさせ,大いに実績をあげてから,原山勝負を発

足させたといわれていろ。何れにしても原山勝負にあたっての名役人の巡廻や

動笂耕;ドii等の対衆が,各村内法規定の通りであったり,原山勝負が差迎った

期に及んで,組がその役割を発揮して,手おくれの部処を手伝って処理し実施

されたのであるから,上からの強制労働の実績審査であったことに間違いはな

いと思う。とすれば前述の座安親雲上が奨励したという村々間の農業の競争的

方法を,王庁が借用して法的基礎を打ちたてたと見るのが正しいかも知れない。

それを裏書するように明治12年廃藩置県後の農事検査の対象カネ村内法通り

になり,田畑の除草b道路,畦略境界の破損修復,溝,暗渠の仕上げb上木仕

立を主とし,それに関連して,山林屋敷囲bの手入に注意して検査されている

のは,(近世地方経済史料9巻185頁)1日慣制度をそのま>踏襲してLTろので

ある。原山勝負の日は廃藩前は旧暦によっていた。それは春秋の農作物の切替

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時期になっていたから,廃藩置県後も期日は間切役人が決めることにし,つと

めて1日慣を維持していこうとしていろ。また法令の内容については相当前から,詳細に規定されたものがあった。(名護間切村内法,読谷山間切内法の如き)しかし農耕に関しての組としての監督h牽制駆立等について,間切村の役人の

見廻処置が具体的に限定的に現われるのは,官通達内法以後の事であり,同内法では,間切並に村の役人以下で責任を以て事に当らせようとする趣旨力桴き

ほりにされている。例えば南風原間切喜屋武村では,村1円に勘定組,民立組若人組,夫組,い組があり,勘定組頭を中心に組の者が部落のすべての行事を協議立案し,星二E墾は行事の監督執行にあたり,萱人組は行事の諸準備,夫頭は現場農地の監督耕転の巡回指導,い頭は諸耕作の調査役で,それぞれ連繋をと

りながら,自主的に部落の統制を図ろことにしていた。(拙著南風原村史)さ

て原山勝負の曰がきまると,その数日乃至十数日前に,各村の役々に手入の内容や下知方の注意を回覧させるようにし,村では役々から一般に達示する仕組をとる。そうして勝負の2,3日前には耕作当など力蒋に下検分をすることが

あった。それb、ら巡回検査をするのは間切の役々がすべて巡回するのを原則とし,間切の村々を南北に,あるいは東西にと2手に分け,たまには数手に分け

て巡回し,①手おくれの部署,②仕不足の点を発見して記帳した。記帳する内

容は,その仕事を人夫何人分と見積って記帳する。役人によっては集計が早く出釆るように,その分量に相当する科金の額を表記するのもあった。そうして

各村の村頭,耕作当,山当は自己の村に関しては表決に与らず,斯の如く各所を巡回して集計記録が終ると,間切番所に集まり,開票をし,その結果最高点をとったところを勝とし,最低を以て負とする。各村の仕不足等にはその村の

本高や戸数も考慮されるようになっていた。こうして2,3日後には原勝負式が催され,づついて競馬を行なった。すなわち原山勝負には間切の東西又は南

北間の優劣の意味と,村々間の競争の意味があったことは前述のとおりである。勝負式の曰式場に集った役々が両方に並んだところで,間切地頭代から勝負順番が発表されて,勝の村には焼酎が授けられ,負の方の役々及び村人は勝の方に向って敬礼をするならわしである鰯間切によっては負の村人に制裁(例え

}銘護間切ではユーシンパニを力塩らせ,知念間切では芝二全二三をさせ,越釆

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間切ではソテツの葉の帽子をかぶり,勝の村民に一々敬礼をして廻ろ等)を加

えたり,或は科銭や過料金を出すところもある。過料金も本人単位に出すとこ

ろと,村組にかけるところがある。例えば真壁間切では,式が終ると幡所役

人と村の徒は番所で宴会にうつり,各村の人民には人口割で応分の焼酎を与え

勝手次第とし,村人は番所前に於て歓遊することにしていた。但しこの諸入費

は一期中原番礼に係る科金及点取によって生ずる罰金やα番所の経費予算中原

勝負費目から支出する。」ことにしていた。また国頭間切の山勝負には「負の

万の村々の夫地頭,徒組頭山当共勝の万ヘーネ[致させ,且つ村々夫地頭徒,組

頭,山当共は各,赤面して業を致さず,そして,科松、科銭は銭にかえて勝の

村に与えられ,勝の村人で処分せよ」と,言付けられることになっていろ。沖

繩法制史の記録によると,「勝ダル村ニハ県知事ヨリ郡長ヲ経テ賞与1円50

銭ヲ与へラレ,村民相集リテ豚ヲ屠り焼耐ヲ飲ミテ祝杯ヲ挙ゲ,次期ノ勝負二

於テ再ピ勝ツベキ手筈ヲ申合ス,又負ケタル村ハ其村頭,山当,耕作当各二厭

フペキ寄形ソ装飾ヲナサシメ木馬二乗ランメ,斧鍬ヲ負イ公衆の前二引キ出サンメ以ラチV6

辱ヲ与フルヲ例トシ,帰村ノ後民衆ヲ集メテ,次期ノ勝負ニハ名挙四復ノ策ヲ

講ズルナリ。」とある。また伊平屋島では「原勝負のときには,木に繩を張っ

たところに,負けた村の長即ち村碇,耕作当,山当その他村の総代と本人及組

合員を木馬に乗せて,つりあげながら村道をまわった。その他負けた村の役々

には煤に油をまぜた黒液を顔中につけることにして恥辱を与えた。以上の例示

によっても明らかなように,全体を通じて村々間の農産競争もさることながら,

上方役人からの賞罰の意味が浮彫されていたことが判る。球陽の記録によると,

嘉慶年間百姓が疲れたとか,怠惰とかで,役人の手だけでは救済の手が及ばぬ

というので,新たに下知役がおかれることになったと。すなわち政庁としては

農事を一層督励指図させようとして,原勝負の賞罰を明らかにし,またその方

法を採り入れ,やがて間切,村の役人にも巡視せよ,督励指導をせようという

指令を厳達している。原山勝負といえども上からの賞罰の一形態であり,怠惰

者に恥辱を与えるのも制裁の方法に他ならない。結局この制度の基礎はやはり

縦横の区別づけと強制にあって,農民に一層の増産励行のために,強力な制裁

方法を加味したものと考える他はなさそうである。従って官庁も自治的統制に

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よって村と村の競争意識,対立感情に着目し,貢租完納の目的を達成しようと

したのであった。沖繩法制史に記録された木馬乗せの制裁も,そのねらいは村

々の対抗。反捷刺激して労働力を最大限に発揮させようとしたものと見ること

ができる。すなわち村々の閉鎖的弧立的な感情を植えつけろ過程としてとらえ

られろ。このことは明治12年廃藩置県後も村々には根強くこの感情が残って

いたのであるから,それ以前他部落との婚姻の場合にも,木馬乗せとか煤をつ

けるとか,馬手間をとるといった制裁があったことは充分うなづけるのである。

しかし対外関係が大きく浮び上ってくると,根強かった村内法,慣行及び政庁

からの指令も,著しく権威がうすれ,且つ変動期の情勢と相俟って,砂糖の粗

製濫造や,法度であった砂糖の個人売買禁止木であった樹木の濫伐が頻々と

して起り,小金を貯えた寄生地主は各所で土地を買いあさり,生産品を売った

余財を利用しては,IhO〒に献金し,一躍新士族になるという奇態な社会が実現

していった。それでもなお原山勝負は引続き行なわれていたが,明治20年代

になると,原山勝負の機構力順次変ってきた。そうして新たな構成要素が加味

されるようになった。すなわち農民は土地と勤労とを割り当てられつつ,特に

商業行為から遮断されている多くの農民は,欲望も充足されないままに,小さ

な村の中に,他村民や他人に負けられない,勝たねばならぬという感'盾のみが

植えつけられていた。それでも政庁臥や嵜雷倉入たちが躍気となって砂糖の買い占めや,土地の買い占めをやっていくうちに,上からの重圧感は次第に除

かれていった。中でも寄留商人が砂糖代前貸を平然と行ない,それを常套手段

とするようになると,大きな損失ということを知りつつも,遂々前貸金を借り

うけ,暴利で返済をせまられて破産する者さえ鮴出る始末となった,こうして土

地整理事業(明治32年~36年)が完了)するという画期的な変革が現われて,

貧農は名実共に個人として分立するようになるのである。個人が分立すると,

かねてから沖繩の砂糖の商品価値に目をつけていた、他県人の砂糖商人か続々

と流れこんできた。そうして彼等は村々の地主と結託して,資金をつくり,農

民に砂糖前代払を行ない,さらに肥料を押売し,果ては砂糖代を目当てに資金

を貸付けて暴利をむさぱろ。こうして士地をとりあげられ,その日用夫になら

ざるを得ない無知な農民たちであったoそれでも大正期を迎えろと,沖縄県に

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6物産検査所ができて,移出糖の等級査定を行なうようになると,各町村単位

で優劣の品評採点が行なわれるようになった。すなわら大正初期まで続いてい

た原勝負の仕組を砂糖生産品評会にすりかえるような形をとったのである。こ

うして品評会の結果l等賞には優勝旗と賞金が授与されるようになる。各村々

ではこの栄誉を永く持続するために,原勝負の機構よりも厳粛な農事労働に駆

立てられるのである。いわば間切時代の原山勝負が社会的に運ばれるところま

で来たのである。こうして資本主義社会にまきこまれていくのであるが,当時

那覇の失業者たちが大挙久米島に流れこんで行き,久米島の一部開拓によって,

砂糖の大増産を行なうという意気込みまでは,よかったが,開拓先で,開拓頭

が同僚の農民を鞭で制裁し,大問題をおこしたことがあるが,大正初期までは

那覇や近くの真和志村では,15才以上の所謂シージヤ方が14才以下のウッ

ト方を制裁するのは,村の法への訓練として用いられていたようである。

第3章資本主義経済の発達

第1節商業資本の流入

土地制度は寛永以後になると,もっぱら農民層の分化を阻止するために,王庁

によって指令され,あるいは停止され,または地割替の周期が決定されたもの

であって,共同体的慣行としてのそれとは,著しくその性格を異にしていった。

これは農村の生産過程に対する強制と相俟って,土地制度の後進性(土地に対

する領主所有権の強さと農民的占有権の弱さ)を浮彫りするもと言わねばなら

ぬ。このように農民占有権の相対的な弱さを前提としながらも、元文以後(1736甲勤

ろと相当大幅な変客を被っている。すなわち地割組内の各戸の配分が本来は均

等であるべきであるのに,実際に配分された地積からすると,全く不均等にな

っている。これは各組間の均等な配分がきわめて不均等になっており,組単位

の配分から,配当の煩雑さから村単位におき換えられたという事実である。事

実各組間の配分の均等性は配分に先立って耕作者の組合せ,或は組直しによっ

て,人為的に役々等によって作り出され,且つまた間切役人の不正な土地配当

によって不均等になっているO例えば威豊2年11月17日の恩納間切御手入

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日記によると,「村々地与合之儀田畑耕作妨其外諸上納物調兼候節致補助肝

要之事iと頂去亥年表方御案内之上,地与合相立置候処,至当分は与々強弱出来

侯由侯間,此節無親疎致与直其首尾申出事」とあり,こう見ると与間の均等

な割替えは,先す当且直上を前提として行なわれたものとみられる。すなわち農

民各層の分化を阻止するためには,定期的な割替を不可欠としながらも,貢租

の円滑な収取のためには,占有権の事実上の不均等を容認した上で割替えを行

なわざるを得なかったであろう。且つまた間切役職が不当な配分を受けるため

にも不均等な配分によってごまかさねばならなかった。道光’2年恩納間切仰

渡日記によると,「上納物調兼及迷惑侯等も有之由,右之通段々親疎之成行故,

威勢有之面々は,猶々余財相増,困窮之者共は自然と衰微之方に成行,追年疲

増候振合之由相聞甚如何之儀候条,右屹と執行引改,家内之厚簿に応じ致地割

侯様可被取計侯,此旨御差図にて例という矛盾が現われている。なおこの矛

盾はすなわち階層分化のはげしさを示すものである。とすると地割替はもはや

「階層分化を基礎としてわずかに貢租負担を再配分するという意味しか持ち得

ないということになっている。この割替え強制と関連して,その士地制度を特

徴づけるものは,人頭に応ずろ作付の割当と,生産過程に対する干渉の強さと

いうことである。康煕86年(1697年)11月中頭法式帳によると、「砂糖うこん百姓頭高に応じ被作立,砂糖は百姓1人に4斤60匁.うこんは

2斤80匁づつ,惣地頭,脇地頭自分暖之村江此員数たるべし」とあり,また

鼓獣騨i童山島旧規書類には次のように見えろ。慎苧並藍敷地之儀,跡々頭数持高之定有之侯処,仕立高少,手入方も令不念

多分御当地産相用・島方の不益,不少事候に付,此節村々模合敷並系持百姓等

家内家内敷地分取を以相重作立させ置侯間,向後右両種作立随分入念,御用布

全相調l戻様可カロ下知事」とあり,すなわち砂糖うこん真芋藍に関しては,人

頭に応ずろ作付の割当を示すものであり,特に真芋藍は持高の決定が,頭数に

よって行なわれたことを明示している。もっともこれだでは,領主経済の商品

経済化の単なる反映に過ぎない場合もあり得るのであるが,琉球の場合には,

このような特産物だけではなく,米についても同様に行なわれたと思われる。

例えば文政12年(1829年)南風原間切惣耕作当日記によると、

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「秋稲作は夏稲作の障害になるところから,田地方では,秋稲作を作らぬ様仰

出しているので,釆年から先は一切作らぬ様にせよ。もし秋稲作をしたものは

当人は勿論われわれも御沙汰を蒙ろ筈であるから左機、得よ,」とある。さて

このような事実は農民的な作職の弱さと,領主的土fujアf有権の強さとを極めて

明瞭に示すものであって,かかる事情が支配しているところでは,言うまでも

なく強制的な性格を帯び,貢租の過重と相俟って,耕作放棄の危険性と,生産

過程に対する干渉とが常に密接にからみ合うことになる。天保7年(1837

年)丙申4月御所帯日記に主ると,

越釆間切越釆村山崎原請地田方

米1石4斗9升3合3勺3才起

右私所持請地,去年上納米として本行の員数及滞納,急度皆納ざせ侯様去年9

月平等所へ御手形を以て被仰渡趣承知仕,至極恐入存奉候,依之奉訴侯儀御成

合の程如何,深重恐多奉存候得共,脱体困窮の者にて,急に上納方の手筋歎相

調御座候条,乍残念地方御取揚被仰付被下度奉願侯,此旨宜様御取成可被下儀

奉頼侯以上。」

附請地帳11取添差上申侯.

申4月日

桃原付5男泉川里之子親雲上

覚崎山村嫡子喜久川里之子親雲上

甲申未進米4斗5升7合1勺5才起.

大鈍川村次男与儀筑登之親雲上

甲申未進米2石1斗9升2勺6才起

右北谷間切野国村浜川村ニカ村帳内,御払地米12月右の面々へ被下置侯処,

無間断申出,御取揚被仰付置候付b本行の員数空に相成,御払捨彼仰付侯間,

其首尾方致し様請地代官主取へ申渡置侯間,勘定方可被申渡侯以上

戌8月28日(文政9年丙戌)嘉陽田親雲上

城間親方

勘定奉行

慶応3年丁卯の年の請地日記にさると,

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米10石

右寒川村五男面付の請地,西原間切へ御援被仰付侯処,右請地の儀作職不罷成段,田地奉行次書を以て申出趣有之候

人名4人

勘定奉行

・請地代官

上記の例はいずれも請地の返納あるいは耕地の渋滞を示すものであるが,手余地となっていたことも明らかである。この事'情の背後には,経済外的強制

の存在,すなわち生産過程に対する直接的左干渉か箸るしかったことを示し

ている。また嘉慶14年(文化6年)(1809年)8月の田地奉行規模I長によると,

「田地荒置其外諸法儀相背者は,則々軽重吟味の上科鞭申付侯事」とし,㈹百姓中無官之者は科鞭三つ以上,見合次第2鞭迄,赤8巻以上位人は-鞭に

科銭一貫文之引当を以申付,銭は手形を以って相納めさせ,番所遣に召成候

事」とある。また威豊9年末南風原間切惣耕作当日記に次の上うな科銭と処罰者の名が記されている。

宮平村下名護之

武大仲村渠

同村山口之江口筑登之

1,科銭15貫文宛

但田方草荒置候不届に付

同村耕作当2人

1,科銭5貫文宛

但為耕作当,田畑見廻下知方可入念之処其儀無之不届に付

名城村耕作当2人

1,科銭lo貫文宛

但為耕作当田畑見廻下知方可入念之処所と田方草荒置侯不届に付

このような強制がどの程度村民の支持を受けていたか分明ではないが,命令

から慣行へ且また原山勝負など,生産過程に対する干渉の形で転形している

ことは事実である。従って商品生産に転ずる機会は全くなく,たといあるに

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しても,過酷な干渉や収奪のために商業から一切遮断されていて,資本を蓄

積し得るものは,間切村の役人かあるいは曾て役職を経験したことのある在

地地主層に限られていたc東恩納村締向条々に上ると,光緒2年(1876年)には次のよぼ

う左取締条令ができている。

「砂糖御取締之儀去申年個条書を以申出有之事には候へ共,去冬焼出砂糖前

代請取,首尾方不行届及難渋村所迄も迷惑相掛置候方も有之別て如何之に侯

間,厳重致取締首尾可申上被仰渡候付,砂糖上納焼過模様相見得,前代請取

候剛は下知人捉,耕作当,証文,惣耕作当,捌理地頭代次書の上頭役共ロロロロ

請取,自然無其儀,内々請取侯はば流刑被仰付度旨諸間切吟味を以申上置侯間

向後前代請取候剛は其心得可有之事」とあって,農民が商業資本をいささか

でも取得しようものなら,忽ち法度を喰い,ひそかに前代を請取ろうものた

ら流刑がまち構えているという社会であるcDZ威豊4年(1854年)恩納間切締向条とに

よると,

首里那覇泊其外之商人共,焼耐又者無用之品々持来侯へ共,百姓共不勘弁に

買取,且那覇泊へ地船旅之時も右同断買下り候上,船子共滞在中不断致酒呑,

秀之所より連々と負荷仕出及困窮侯者,段々罷在由相聞,甚以如何之至候条,

自今以後商人共より品物買取並取合令借宿且地船より無用之品買下滞在中酒

呑が間敷有之者共は,厳重其科申付,左侯て日用難差鉄品之は地船又は何歎

に付,首里那覇泊往還之者共相頼買下,IwDも無益之費無之様,稠敷可致取締

事」とあり,砂糖代によって些少の日用品,、酒類を買うとすれば厳重に科を

申付けるというから,商業資本の蓄積などは殆ど不可能に近いという有様で

ある。しかし間切,村の役人や曾ての役職で有位者となっている者には幾らも

その機会がつかめるというのがいつわらない状況である。また恩納間切締向

条々の農事締向については次のとおり規定している。「農業方之儀百姓等題

目成勤,専其働により間切中栄労之沙汰相掛事侯付,其差引入念侯様にとの

儀は,先年来段々別けて仰渡され趣有之候処,愚昧之百姓等山工漁猟之働を

専らにして,産業方は常に女共へ任置,耕方不行届候故,年貢諸上納物調兼

及難儀侯由,畢寛下知方大形之所より件之次第甚以如何之至候条,自今以後

農務帳其外時を被仰渡置候か条に基き,携之役を腰書之通り厳重致差引,諾

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作毛取実相増し,年貢上納物無滞相納,飯料無不足,取続余計相貯,凶作差

当候共不及難儀様精と可下知事」とあり,砂糖代金を商人から前取する左と

か,酒その他無用の品とを買うな,農業以外の職業をするなと強制命令を出

し,農民に余財を残さぬよう厳重な取締りをするのである。それでも蕩均と

して押しよせてくる資本主義の波をさえぎることができず,農民が僅かの盲

点を縫うて資本の蓄積を行なうとすると,農地は御援地であるから質入譲渡

は法度であるぞ,とおどしつけ,法をたてに厳重な達しをするのである。同

締向の条とにさると,

「御授之田畑山野質入侯儀,跡々より堅御禁止之事侯処,其守無之上納物調

兼侯節は,村向に質入又は売切等有之,且つ銘々よりも本地山野之内ホリタ,

ハンタ杯と申し,仕明成にて氷と所持又者売買等有之,且蘇鉄敷も先を上り

面々持通しにて,至当分は身帯宜者共主り却て買い取り,一円所持無之者も、、、、、、、、

段Ar罷在,彼是以至極不届之仕形にて,此節夫と御取揚被仰付侯条,自今以

後重て右様之仕形於有之は現地御取揚之上,売手買手共重科御取扱被仰付筈

候条,11リリも大形相心得間敷と,毎度厳重可致差引事」とあるが,砂糖前代と

して受取った資金は,たとい砂糖前代として受取った資金は,たとい砂糖生

産が行届かなくても,土地を質入にするか,売切にしてしまえば,それで相

殺できる。従って商業資本の村落流入に上って,農民はいよいよ生気を吹き

込まれ,い主い主土地集積を行ない,上納未進の者でも,御授地の売買質入

を公然とやってのけるのであるo威豊10年(1860年)(万廷元年8月17日)の法條

によると,

「請地仕明等作得高甲重ね,権銭主を編し,質入或は他の地方まで自分の地方と

申偽り見届させ,或は他人え質入置侯付,請出可相渡杯と申廻し,終に渡方

無之,或は質物入置侯屋敷等銭主無引合売払,其外右体偽の方便有之類の者

は盗賊に準じ罪科」とあるが,遂に其の類の科人をあげることができず,結

局原初以来続けられてきた地割制度もずるずると崩壊し去ったのである。

第2節土地整理■

土地整理は明治政府が沖縄に従来あった地割制に主る土地所有権の処分をす

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るため,土地を測量し,地価を査定し,租税制度を改正する目的で,明治31

年(1898年)7月カキ縄具土地整理事務局官制を発布し、翌明治32年から事業を開始し,同36年に完了した事業である。これに主って最後の地割によって配

当された土地に対して,農民の所有権を設定され,・鈴IEの封建的姪櫛創ら一

掃され,人民の生活が更生一新し,社会の各方面に亘って更生の機運が現わ

れた。いわば本土の地租改正にあたる革新的な大事業であった。もとより沖

縄は地割制度の積弊から,土地に対する愛着や耕転に対する興味も薄く,地

力は年を遂うて衰へ,生産の増殖は到底望むことができず,又その土地を抵

当として農業資金を融通することができたいために,未来の収穫を担保とし

て,高利の資金を借り入れ,その産を破zものも少なくなかった。従って農

民は窮乏困懲に赴く一方であった。殊に地割制によって配当された土地は勝

手に繰替する自由がなかったので,遠距離の耕地を割当てられたものは,無

駄な労力を払うものも少なくなかった。しかしこの制度に主って,これらの

旧制度に主る不便は一掃されることになったのである。旧慣に主る土地制度

は慶長16年薩摩藩力埣入奉行を派遣して検地したことに始まるといわれて

いるが,その検地は誠にお粗末なもので,従来あった沖縄の地割替を検地に

すりかえるような有様であった。従って土地は人民に私有させたものではな

い。その結果土地の売買,質入,譲渡などの権利はなく,ただ僅かに開墾地

に対して売買の自由が与えられたに過ぎなかった。その開墾と錐地も鍬下年季

3年を経過すれば,地割の対象になっていた。土地の大部分である百姓地は

地人に対して,家族数又は貧富の標準によって割賦配当し,4.5年から,

30年の間に割替を左しめるという原則である。この制度は國初以来行左わ

れてきた地分けの方法を時代とともに数次I垣って改変したらしいというと

とである。特に慶長以後の改変は著しかった。明治32年の土地整理紀要に、、、、、、、、L、凸、、、、、、oヘ、

は次のように記録している。「この帝I度は往昔より行なわれたるものにして

(傍点筆者)その精神や全然排斥すべからざるものありと錐も,而もこの制

度に伴う弊害の著大なる、のあるを奈何せん」と,実際に地割制度には次の

ように多くの弊害があったことは事実である。R今日自己の占有耕作せる土

地が,明日亦自己の有となるということを期待することはできない。従って

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土地改良の念が起らず,過度の耕作を施して地方を消耗させる。ロ地人は土

地の配分を受けるから,営々として農耕にいそしむ必要もなく,従って貯蓄

心,起業心とては全くなく,勤勉の徳性もなく,産業の発達,生産の増加を

念ずることなし。こういう始末であるから,租税制度も時代の進展に伴って

改廃されたものではなく,ただ上からの御都合次第で命令されたものに過ぎ

たかった。特に宮古宴八重山の如きI夫寛永13年(1636年)人頭iiii謁定以来300年を経過してもう石高を変更したことなく(もっとも先島はごく一部の田地

を除いて地割はなかった。)沖繩本島に於てさえ,各種の土地異動があり,

石高がしばしば変更されたのに拘らず,その修正は行なわれなかったのであ

る。しかも納税の主体を間切,村とし,完納の責任者が左た村,間切にあっ

たから,間切,村の行政責任者たる11,頭代、村捉がその責任を負うという仕組

である。従って怠納者未進者かあれば,直ちにこれを捕えて問責し,処罰を

行なうのである。すなわち租税制度の上にもその不統一が露呈するに至った

のである。事実先島のように地割制度がなく,その上土地の地位が最も下位

にある地域において数百年も不動の額を配賦するに至っては,その配賦税は

到底背負い切れるものではなく,まして八重山の如く激烈な痒病の地では,

人口が年々減少し,-村悉く全滅することさえあり,のみならずそのための

負担が減ずるという例がないとあっては,この世はあげて貢租負担のための

地獄図絵でしかなかったのである。

ロまた沖繩では農民個人が納税の主体ではない。しかも貢租の賦課かきわめて不公平である。かてて加えて物品納の弊害が甚だしい。

四徴税法が冷厳をきわめている。すなわち物品納の場合でも,運搬も納付も専ら個人の労力に挨ち,その方法の煩わしさ言うに堪えず,にも拘らず代金

納となっても,年々市場相場の高低によって,その税額は変動すべきである

に拘らず,その額はひたすら高騰の一途をたどるに至った、これでは到底支

払いを続けることは不可能であろう。しかも役人層は徴税の実をあげるため

に,さまざまな制限束縛を加えるという有様である。例えば砂糖にしても,

年貢皆納以前に売却は注かりならぬとし,滞納,未進の節は,有無を言わせず

財産の差押えをして売却し,貢租に充て,それでも不足するときは親類,組

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村間接に及ぼして,しぼれるだけしぼり取るという有様である。例えば与

那城間切では,「地人貢租未納之節は間切より其村へ,村上りは其組へ,組・

坐りは本人へ督促す,自然行届かざる者は,組中上り本人親類中召喚,何日

迄に相納きせ候様,自然相違に及侯はば,本人は勿論親類の家屋畜類所有品

を引揚〈べき旨達置き,相違に及び候はば,本人家屋畜類所持品引揚げ,尚

不足を生ずる見込有之候はg親類中の家屋畜類所持品とも引揚げ決算致しi

若し亦不足を生ずる歎或は親類無き者に於ては,組中或は村中負担を以て弁

償致させたり。

明治17年11月4日地頭代玉城太郎

中頭役所御中

また北谷間切に於ては,次のとおり取調書がつくられている。「百姓年貢未

納有之節は,其村徒,頭を上り組中に対し,日限を以て督促し,自然右日限

迄不相納候は1K,其の畜類,所有品共引揚げるべく相違し,組中エリはその

趣を以て,其親類中に督促致し置き,自然日限を誤る時は,与中より本人の

畜類所有品引揚げ,若し不足を生ずる見込有之節は,親類中の畜類所有品を

引揚げ,尚不足の見込有之時は村徒頭女共より与中の畜類所有品を引揚置き

皆納の上夫を返戻致し候,尚’4.5日間延滞候ものは夫を公売を以て決算

致し候,尤も人体に依り2,3度に及び未納致候者は現地作物共に引揚げたり。

明治17年10月25日地頭代津嘉山力蔵

中頭役所御中

また浦添間切の調書には次のとおりである。

「地人年貢未納之節は間切よりは其村へ,村主りは其与へ,与主りは本人へ

督促す,自然行届かざるものは,与中より親族中召喚何日迫に相納きせ侯様,

自然相違に及候は9,本人は勿論親族中の家屋畜類所有品なるとも引揚ぐべ

〈相達置,相違に及び候はg本人家屋畜類所有品引揚げ,尚不足を生ずる見

込有之候はhr,親類家屋畜類所有品引揚げ決算致し,若し不足を生ずるか,

又は親類無之場合は,与中負担を以て弁償致したり。

明治17年9月24日地頭代仲吉吉敬

この過酷な実情が,土地整理にふみきらした一因でもある。以下土地整理法

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の規定を展望しようo

第一条沖繩県における土地はこの法律の定むる所に依り之を整理す。

第二条村の百姓地,地頭地,オエカ地,ノロクモイ地,上納田キナワ畑に

して其の村に於て地割せる土地は,地割にきり其配当を受けたる者又はその

権利を承継したるものの所有とす。但し其の配当を受〈べきもの多数の協議

に依り此の法律施行の日上り-カ年以内に地割替をなすことを得,村が浮掛

又は叶掛を受けて之を地割したる土地にして,第六条第一項但書に依り村の

所有となるべきもの及間切の仕明地を間切内各村に分配地割し,又村の仕明

地を其村に於て地割したる土地に付ても亦同項に同じ,(「地割によって配

当された土地は其の配当を受けた者に私有させるというが,従来農村におい

て地割替をする方法や実情を勘案せず,機械的に処理する方法をとったとこ

ろに大きな欠陥を残す主うになった。」)

第三条地割配当の統並のため現に叶米若〈は之に代わるべき報償を受〈べ

きものは,其叶米若〈は之に代わるべき報償を受〈べきものは,其叶米若し

くは之に代わるべき報償を負担すべき者より,相当の土地を交付し又代償を為すことを要す。

(隙三条の条文中叶米を現にとっていたのは寄生地主層であり,同時に地

方役人層であったが,その実情を考慮せずに,農民から報償に代わる土地を

取揚げる矛盾を敢て指令するところに,貧農を多くつくる理由があった。」)

村が浮掛又叶掛を受けて之を地割したる土地にして村の所有とならざるもの

の配当を受けたる者又其の権利を承継したるものには,其村持地の配当を受

けたる者又は其の権利を承継したる者より,相当の土地を交付し,又は代償をなすことを要すo

(「にも拘らず本項では,村持地の配当を受けた者又はその権利を受けた者

というのは,村の捌理以下の役人であったから,いよいよ皮肉な現象と言わざるを得ない。」

第四条村の百姓地,地頭地,オエカ地,ノロクモイ地をその村に於て,屋

敷地として配当したる者は,其配当を受けたる者又はその権利を承継したる

ものの所有とす。村が浮掛又は叶掛を受けて之を屋敷地として配当したる土

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地にして,第六条第一項但書に依り村の所有となるべきものに付ても亦前項

に同じ。

第五条屋敷地配当の統並の為現に叶米若〈は之に代わるべき報償を受くる

者及村が浮掛又は叶掛を受けて,之を屋敷地として配当したる土地にして,

村の所有とならざるものの配当を受けたる者又はその権利を承継したる者に

付ては第三条の例による。

第六条村の百姓地,地頭地,オエカ地,ノロクモイ地,キナワ畑にして村

又は組エリ浮掛又はロ'掛をなしたるものは,其の浮掛又は叶掛をなしたる村又は組にお

ける地割の配当を受<べき者の共有とすぴ但しIJt米若<は之に代わるべき報償不納の場

合の外取戻すことを得ざる浮掛又は叶掛の土地は,村又は組エリ浮掛又は叶掛を受けて

占有を得たる者又はその権利を承継したる者の,所有とす。前項に依り共有となる

べき土地に付此の法律施行前に成立せろ,浮掛又は叶掛の関係は,此の法律

施行後に於てもなお存続す。第一項に於ける共有者の持分は第二条に於ける

地割の率による。第一項但書に依り所得を得たる者は勅令の定むる所に依り

浮掛又は叶掛を為したる村又は組に対し,報償をなし且つ第23条に依り,

地租を徴収せらるる迄従前の叶米又は之に代わるべき報償を浮掛又は叶掛を

なしたる村又は与に交付することを要す。

「すなわち明治政府の干渉力を特徴づけた元文以後の地割替を解体するが,

地人が分解.崩壊することは,相ならぬと,その阻止をくい止めようとする

考えが露呈している。さればこそ,村持地である土地を,村又は与が小作に

出した土地ならば,村又は与の共有であるとし,氷小作地については小作人

の所有であると指令するのである。」

第七条藩制のとき地頭の自作し又は拾掛をなしたる地頭地にして,村持と

ならざるものは,其の自作者若〈は拾掛により占有を得たる者又は其権利を

承継したる者の所有とす。

第八条藩制のとき質入したる地頭地にして,村持とならざるものは,質取

主又は其の権利を承継したるものの所有とす,前項に上り所有を得たる者は

質入主に対し,其の債権を主張することを得ざるものとす。

第九条ノロクモイ地にして村持とならざるものは,ノロクモイとして占有

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を得たる者又は其の権利を承継したるものの所有とす。

「第七・八・九条:は村の所有でない非地割地である;地頭自作地、地頭質入地及

びノロクモイ地などは,その占有者又はその権利承継者の所有とする,こと

であるがノロの任命や承継に特殊な方法のある地域においては,その所有を

発端として係争を起こすことがしばしば現われた。中城村のノロ地承継

に関する争,羽地湧川村のノロ地承継に関する係争」(島越憲三郎琉球宗教

史の研究参照)

第十条墓地及其の附属地は朱引等を有すべき者の所有とす。

第十一条仕明請地,仕明知行地,請地,払請地拝領地及那覇首里両区内の

屋敷地は手形差出等を有すべき者の所有とす

第十二条埋立地及浜,山野にして此の法律施行前埋立又は開墾の成功した

るものは,其の埋立又は開墾をなしたる者又は其の権利を承継したるものの

所有とす。

「私有地としての仕明地や仕明請地等は手形を有する者の所有としているが

手形を所有するものは僅かに1.2を教えるだけである。手形の所有者でな

ければ所有できないとなれば,それは引揚地とならざるを得ない。埋立地に

ついてもこの法律施行前に,埋立が完了したるものについては,その埋立者

または権利承継者の所有となる,とあるが,将来埋立てんとする土地もすべ

てそのものの所有になったという現象が現われている。また間切,山野や村

山野あるいは浮得地,馬場などはその区や間切村またはその権利承継者の所

有となってしまう」

第十三条間切山野,村山野浮得地保管地,馬場牧馬及間切役場の敷地等は

その区,字,間切村又はその権利を承継したる者の所有とす。

第十四条村持地にして,村エリ譲渡したる事実あるものは譲受人又は其の

権利を承継したるものの所有とす。

第十五条期限を定めずして開墾を許可したる杣山は第十八条の規定に拘ら

ず其の許可を受けたる者又は其の権利を承継したる者の所有とす。

第十六条永久に交換したる土地は其の引渡したる土地の名儀忙依て前各条

を適用す

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第十七条前項に該当せざる土地にして民有と認むべき事実あるものは第二

条以下の規定に準じ処分す。

第十八条杣山,川床提防敷及其余地其他民有と認tPべき事実なきものは總

て官有とす,杣山の保護管理に関しては勅令を以て親定するものの外従来の

慣行に依る。

「第十四条以下十八条までにおいても,農村社会の慣行と矛盾する事実が多

い。例えば村が譲渡した土地はその譲受人又はその権利承継者の所有である

とうたっているが,農村の慣行としては,村徒や間切,捌庫理にはその功労

の代償として,役々の割当地を譲渡する慣わしであった。だから数次にわた

って役職を経験する主うな者はこの時点で忽ち土地所有者にはねあがってし

まう。同様に「無期限の開墾許可を受けた杣山はその許可を受けた者又は権

利承継者の所有」となれば村山の大半を村役人が権利承継者とならざるを得

ない社会である。唯僅かに従来杣山として指定されたところ及川床,堤防敷

道路敷が官有となった位で,役人であって山林所有者が徒らにつくられてい

かねばならぬことになる。」

第十九条この法律にエリ協議したる事項は当該官庁の認可を受<くし’

第二十条この法律により民有となりたる土地は便宜区画して地盤を丈量し

毎年其の品位等級を詮定し所得を審査し其の土地の情況に応じて地価を定む。

第二十一条土地整理に関する処分に付不服ある者は処分を受けたる後90日

以内に当該官庁に申立つることを得,但し第十九条の場合はこの限りにあら

ず。

第二十二条前条の申立に対する処分に付不服ある者は訴願を提起することを

得,

第二十三条地租条令及國税徴収法は勅令を以て期日を定め漸次沖縄県に施行

す。但し社寺地,拝所は地租を免除す。

第二十四条沖繩県に於ける地租の納期は勅令を以て定む。

第二十五条との法律の施行に関しては,伊江島,伊平屋島,粟國島,渡名喜

島,鳥島は間切に準じ与那國島は村に準ず。

このほか土地所有権の決定方法について言える事は,現在の占有の事実すな

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わら既得権或いは農民的土地保有権というものを最大限に重視尊重したこと

であり,永小作地を一定の報償のもとに,小作人を以て所有権者としたこと,

杣山を官有としたことである。この決定条件がそもそも従来土地占有の既得

権者であった間切,村の役職階級であったことが,資本家をつくる所以でも

あった。すなわち彼等は既得した土地を資本として,商品作物を裁倍し,小

作人に土地を耕作せしめ,砂糖製造が有利であることに着目すると,直ちに

その製造に精力を傾け,販売の経路を寄留商人の資本と合流しながら,砂糖

の買いあさりも始めるようになったのであるnとの資本家すなわち寄生地主

化は前述の順序を経過している主うに思われる。すなわち土地整理法第6条

により永小作権者(多くはかつての役職階層)は,土地の所有権を認められ

たかわりに,村や字に対して一定の報償を支払った。その報償額は明治32

年6月の勅令によって定められた。従来の叶米の三年分としたが,それを年

賦で償還することを認められている。この報償廃止について大きな物議をか

もしたけれども,小作料の三年分は全くのはした金である、この氷小作人の

中には居住人もかなり居たが,或いはこの居住人保護の意味もあっただろう

か。何れにしても小作料の3年分というのは,1年の収穫の半分に足りない

という実情であるから,ただ貰ったといえそうだ。そのためであろうか居住

人にしてよく大土地所有者になりすましたものも多い。また杣山が土地整理

法によって官有になったので,地目の總反別(212,108町歩のうち民有地が

112,816町歩となり,官有地は約99,565町歩となっているが,官有

地の大部分が国頭地方にかたよっているのも問題であろう。とかく杣山が官有

となったり,土地の所有権獲得が従来の既得権を重視したり,浮掛人が保護さ

れたということや,さらに土地整理法施行後6か月以内での土地の割替を認め

た法的精神などは,未だ問題含みのまま検討されていない。

愚l土地整理後の地主階層別表

付則

第二十六条1tI縄県に於て土地に関し1日慣により徴収する国税は第二十三条に依り,

地租を徴収する年より之を廃止す。

第二十七条との法律は明治52年4月1日より施行す。

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「すなわち本法規定は土地の所有権の処分及び所有の確定したる民有地に対し,

地価を査定して地租条令及国税徴収法を布き,同時に旧慣に依れる国税の徴収

を廃止するの2項に他ならず。故に斯業に於ろ業務の網目は大別して土地所有

権の処分及地価査定の2とす。然るに土地所有権の確認に付ては土地の所在分界を明

らかにする老要し,価た地価の査定に関しては先づ其の面積の測定を要する老

以て士地測量の業務は即ち之に加わざるを得ず。」とし,その業務を下の通り

掲げている。

1.土地所有権の処分

2.士地測量

3地価査定

まず土地所有権の処分に付て政府の意図を瞥見しよう。「土地所有権は沖繩

県土地整確法に於て大体土地の種目を網羅列記して一々之を指定し,唯僅かに

特殊変例に属するものに対して法条列記の土地を処分すべきことを規定せるに

過ぎざれば,土地所有権は単に土地の種目に従い,法条の適用を以て自ら決定

せらろべ<,事甚だ簡単なるが如し,然るに本県の土地は其種類名称甚だ雑駁

にして,其性質亦甚だ区々に渉b,同1種類のもの亦多少其の性質を異にし,

同1名称のもの亦必ずしもその性質を1にせず,為に実際に於ては錯雑混清し

て甚だ判別に苦しむものあり。殊に民度未だ高からざる本県民に対し,能<法

律の意義に通暁して,権利の帰看する所を知り,自ら進んで処分の申請を為さ

んことを望むは寧ろ難事に属するものと言わざるべからず6於是乎士地所有権

処分の方法の大に鄭重を要すべきを知る。夫れ土地所有権の獲得{ま古来地割制度

の下に於て単に土地の耕作収益をなすに過ぎざりし本県民に取りては,実に千

載一過にして其の利害の繋ろ所甚だ軽からざるものあり,されば沖繩県士地整、、、bL、、、Q

理法の発布せらるや浮説巷路|乙行なわれ,動きもすれば之Iと曇惑せられんとし,

顧みて之を法条の規定に鐸ぬることなく,僅々として安んぜざぜるものあり.、、、、、、、、、、、、、、、L、、、■、、0●、や、、

jW黒吉の従或は乗じて利を其間に漁せんとするの傾向なしとせず。(傍点筆者)

③土地整理を契機に地主にはね上がった人々

(多くは先代からの村役人の経歴をもった人々である)

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一羽地間切我部祖河村の宮城家

田65,570坪

畑17,000坪

使用下人数男30人女5人

-ヘ同伊差川村の玉城家

田服40坪

畑7,600坪

-へ同仲尾次村の松田家

田、畑、山林で10町歩

使用人男子25人女子6人

一、同源河村の島袋家

田、畑、山林で30町歩

使用人男子30人女子7人

牛6頭馬5頭

小作料700俵

自家生産300俵

一、玉城間切富名腰村上間家

田5500坪

畑5870坪

山林2j000坪

-金武間切石川村の石川家

田5,000坪

畑5500坪

山林3町歩

一、国頭間切奥村の金城家

田5A)00坪

畑17,000坪

山林35,000坪

一、楚州村の大城家伏城久安)

畑25,000坪

山林20,000坪

一、同安波村の大城家(大城安親)

田5,000坪

畑25,000坪

山林30,000坪

牛、馬15頭

へ平良間切西仲宗根の仲宗根家

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田3,000坪

畑30,000坪

山林20,000坪

名子30人

一、大里間切大城村の玉城家

田5500坪

畑7,000坪

山林5000坪

名子12人(住みこみ名子)

-、南風原間切兼城村の大城家

田3,000坪

畑20,000坪

山林3,000坪

名子生り15人

一、摩文仁間切摩文仁村の大田家

田2,000坪

畑30,000坪

山林5,000坪

名子生り13人

牛10頭

馬5頭

③寄生地主

沖縄の村落結合がいわゆる同族的結合の型をとらず、組型であることは一見不思議に思われるかも知れない。東風平村tlh名城には七つバラといって古くから大きな門中が7つあるが、本土の同族とは違い、祖先の祭りと墓を共同に持つという祭祀集団であって、経済的政治的等の機能はない。すなわち大手作地主(本家)と小作人(分家)との主従関係ということは、沖縄にはおこらなかった。そもそも沖縄には、近世に大地主や寄生iIb羊の発

生をみなかった。=与那国進は「沖縄の土地制度と農村の構造的関連についての一考劇という論考で、寄生地主の発生に否定的な立場をとっているが、近世以来、領主や役職と

して政治上の地位を獲得していた者はやがて地主となり、寄生地主として多くの名子、悴者を従え、その耕作によって富や土地を集積し、或は小作人を従えて多くの利得を得てい

た。例えば、尚家の大土地所有者や宮古(西仲宗根柿の仲宗根家、名護間切宇茂佐ウエーキの虹きがそれであった。

於是平益々処分方法の鄭重を要すべきに至り遂に左の方法を採用せり。

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1.土地整理法の説明,局員を間切村に派遣して説明せしilTd

2.所有権処分の指示。

土地の種類'性質占有の慣例等を調査してその所有権の帰する所を決定し,其の

新奇異例に属するものは,毎件局議に快し,局員をして各村に就かしめ,此の

決定に基きて一々其の所有権を指示し,説明示諭に依り了得して異議なきに至

らしめ,特に処分令を発することなく,以て処分の結了とする。若し其の指示

に服せずして,異議を唱うろものあるときは,滋に始めて本局に向って処分の

申請をなさしめこれを処分することとせり」とし,

ろ’地割替の勧誘をしては、、.、、、、、、、、、、~い、もも

「法律の規定は大体に於て土地の占有者に対し,その所有権を認tPろの旨意に

出ず,而して本県土地の大部分たる百姓地は地割により,各自之を占有す。然

るに地割は既に数年又は10数年前に行ないたるものありて,漸次その所持の

割合権衡を失するに至れるものあり,若しくは既に地割の配当を受〈べき資格、、、、L、、

に適せるもの}こして,之が配当を受けざるものあり,或はその地割の方法公平□も□●、、、、、、、

を欠けるものなしとせず,然るに現在占有の状態|こより,その所有権を確定せ

んか,遂に所有の公平を保つ能わざるを以て,沖繩県土地整理法に於ても,1

年以内に於ては地人の協議に依り,地割替をなさしめ及其の地割方法の正否を

監督して可成一般に土地の所有を得しめ,及其所有の公平を保たしめんことを

画せり。」と以上の方法によって土地整理は遂行されてそったが,地価の査定

については,整理法の第二十条に「この法律に依り民有となりたる土地は便宜

区画して,地盤を丈量し毎筆其品位等級を詮定し所得を審査し,其土地の情況

に応じて地価を定む」という規定にもとづいていろ。また土地整理紀要による

と,地価の査定はまず一定の方法によって,収獲の調査を行ない、それをもとに

してそれぞれの郡ごとに,各間切村の地位等級を定め,それぞれの所属村の等

級に照応しつつ,地押調査の際各筆ごとの等級を定めて,地価の査定を行なう

という方法をとったのである。収獲の調査はまず間切毎に上,中,下の5等の

村を指定し,さらにそれぞれの村でも同じく,上,中,下の5等の土地を選定

して,毎年同一の土地に関して坪刈試験の方法によって収獲量を調査したので

ある。具体的には間切村吏及村内の篤農家を立会わしめ,米,粟,大麦,裸麦,

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小麦,甘藷,甘蕨の各種について調査することにした。またその際自作地小作地

の別を調べ,小作地の場合はその小作料を,自作地については小作料に相当す

るものを調べることにした。次に地位等級の決定については各地目ともまず間

切位と村位が決められ,そして間切位は各郡ごとに2等に分けられ,然る後村

位は所属間切の間切位にかんがみて2等~4等に分けられた。耕地の間切位村

位を決定するには,先ず村ごとに田畑の各段別収量の最高最低額を調べさせ,

それぞれの村の収獲の最高額をもとに,交通の便否,その他の特殊事情を蝋酌

して,等級を選定し各等級の石量をも定めた。しかし最終的に確定するまでに

は,間切位については所属郡の郡長,島司の意見を求めた上で,各間切長,勧

業委員,各村地主總代に,また村位については当該間切長や各村の村頭及地主

總代に諮問して後確定したのである。又宅地の,間切位6村位については,隣接地

の田畑の収穫高に比準し,さらにその地方の繁栄の程度をも加味して等級を詮

定し,毎等級の石量を定め,以下耕地の方法にならって確定した。こうして各

地目別の間切位村位が決められると,次いで1筆ごとの地位等級の選定にうつ

ることになるが,各筆地の等級は,耕地については前に定めた収穫の最高最低

額を,開切位,村位の等級によって校定して,その範囲で定め.各等級の石量

も定めたのである。前述のように土地整理法の規定に(夫沖繩の土地の状況,村

落の行政機構等が勘案された法規として一応捉えることはできるが,最大の欠

陥は沖繩全体として耕地の間切位,村位決定の矛盾である。強いて旧来の慣行

である地割替の方法を生かそうとしたために,間切位,村位の詮定が杜撰きわ

まるものになっていろ。すなわち詮定にあたっては間切長,村頭,1lb主鍾代に

諮問するというまづさである。彼等の多くが寄生地主になりすましているとい

う現実を見逃がしているところにその原因があったことを知るべきである。

前述の事項を要約すると沖繩の土地整理事業は明治56年に至って完成し,

先島2島は36年1月から,他の郡区は57年1月から地祖条令が施行される

ようになったのである。沖繩の土地制度は前述のように,慶長年間に数度にわ

たって検査されて以来2百8拾年間何等の改革もなく,10数種の多きにのぼ

る地種の大部分を占める百姓地が,また数年苦しくは10数年毎に地割替が行

われるという旧慣であった。その地租ですら村に賦課して一定の石高を納めさ

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せ,村単地に割当てられた土地は個人に再配分をして,村は割当てた土地に準

じて個人から徴収するというのであるが,もし個人が滞納する場合は与が弁償

し,与が弁償できないときは村が負担するという制度である。従って明治15

年代になると,どの村も負債が累積し,背負い切れない程になっていた。その

税額は勿論村に授けられた百姓地から割出されたものであるが,その基準がた

またま科学的な論拠に基づいたものではなく,まず村の地位を上,中,下,下

々の4段に分ら’土地にもそれぞれ等級を設け,その等級によって各村の賦課

額を定めているが,等級区分も殆ど胸算用によるものであり,'情実が多分に加

味された形跡がある。この事情I鮴吉朝HixD「琉球地租の治革概要」の記録から

察知されよう。その一節をあげろと,「此の御検地の法様は先ず村の位を上,

中,下,下々等の4段に差分け,位を定め,又地位を右の如く段々に定め、竿、。。、、、、、、

の積りは六尺五寸老1間として,この竿を以て田畑のなりjg?見合せ長横十文字

に打込、其長横の間を張面に記し,右の通りにして畝段取立。扣御高を据候に

は,田は分米石高ということ,畑は分大豆と話して,右段々に例を定め,上村

上田一畝分米一斗六升,下々田一斗,上畑一畝分大豆一斗二升,山畑三升とし,

中村,下村となるに従い,六升乃至四升の差があり,下々村の上田が-斗、下々

田四升となっていろ。」この分米,分大豆というのは今日の法定地価というべ

きものであるが,地位の差分け,村位の差分け,その他竿入の杜撰さ加減が遂

に,慶長以後数回の石高,訂正を余儀なくさせたのである。その訂正の概要は

次の通り。

慶長14年八万九千八十六石

寛永6年八万三千八十五石二斗一升

寛永12年九万八百八十三石九斗一合七才

享保12年九万四千二百三十石七斗九勺四才

従ってこれを基準として薩摩から賦課された貢租も数回の変遷を経て次のよう

になっている。

本出来10,569石14655

賦米1,408石74898

牛馬出米156石75058

100

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計11,914石64569

この貢租の徴収にも現品納があり,代金納があり,物々交換納・夫役換算法が

あって,年によって変動し,特に中国貿易と租税との関係は,実に巧妙な利益

換算を行なって不当な利をあげていろ。にも拘らず琉球内で賦課していた「代・の上納」というのが大変な重課である。「代の上納」とは1505年尚真によ

って定ゆられ敬整に準撞したものでその割合は五公五民の制によったと思われろ。すなわち「御当国検地之新新古御法集」という文書によると,「往古代

定の儀田万七斗五升六合より二斗一升迄。畑万二斗五升より九合迄段々高下有

之。間切毎村毎に相替り,又村之内にも代数有之.其代数多に相及び申凋と

ある。この山。:すなわち地租率のことで,儒切,村によってその率に差異があ

るのは,各間切に制拠していた領主が,随意に地租を徴収した名残であろうと

いわれている。慶長以後寛永期までは百姓地の周辺にある林野は開墾して耕地

に変更してもこれに対する代定は別に設定されていなかったから、負担の割合は

やや減じていたらしいが,享保以後になると,林野の開墾も法度とされ,且つ

時代がたつに随って夫役が多くなって貢租能入不如意の者が著しく多くなって

いろ。この実情については一木書記官の取調書によって明らかであるが,こう

した事実が土地整理を断行せねばならぬ主因になったことと思われろ。また土

地整理の影響については沖繩法制史(森賢吾)に次のように記録にしていろ。

1.従来の土地制度によれば,農民の負担は過重にして彼等は殆んど貢租を調

達するため官の土地を耕作している奴隷の観がある。のみならず一定の年期に

至れば地割替えがあるから土地に対する愛護の念がうすい。土地整理によって

農民各自所有権を獲得したから,土地に対する観念が一変し,地力の増進生

産物の増収に努めた。土地の所有,新しい税法の施行は疲臓の農民に一道の活

気を与えた。

2従来の制度では農民の耕地は遠近の別なく配当されたため往復運搬の労や

管理監督の煩預も多大であったが,土地整理の結果各自の便宜の土地と交換す

ることが出来,これがため労費を省き生産を増加させることができた。

3.大部分の土地に農民の所有権がないため,生産資金を要する場合にも,土

地担保として貸借することができず,勢い高利の資金を借りるか、未来の収穫物

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の特売を約して,商人に利用されるなどの不利があったが,土地整琿の施行に

よって土地の抵当が自由になり,経済の向上とともに,金融の流通を助け,金

利の低減をきたし,産業の発達に貢献できた。

4.新制度は土地所有権が個人にうつり,土地の処分が白由となり、売買抵当も

頻繁となった。元来沖繩には資本家階級というのは極めて少なく,土地兼併の

風もなく,寄留商人といえども所有権が不安定であるのと金利力塙いため…士地

に投資するものは殆んどなかった。それが土地整埋法によって所有権も法規の

保護するところとなり,農民がまた農業の薄利に飽いて土地から離れるものが

多くなり土地兼併の勢を生ずるようになった。

5.県内の道路交通が険悪である上に離島間の交通が不便をきわめていたが,

新制度の結果地方費収支の機能が地方に移るようになり,海陸の交通も自ら開

かれた。

6.1日税額は46万円であったが,新租額は12万6千円であるから,その差

55万4千円の減少となった。もちろん地方費は多少増加しても平均一戸当3円、

1人当7,80銭の負担が軽くなる勘定である。しかも沖繩の農民は1日の生活

費用は2,5銭で足り,甘藷を常食とする農民には実に莫大な恩典であった。森

氏の考察は概略以上の通りであるが,5百年も旧態依然として地割制度のもと

で,貢租納入のための奴隷に類する生活を強いられては産業経済の発展が期し

られるよう筈はない。しかも社会生活がすでに精神的に破産の状態にまで立

ち至った頃になって漸くこの制度を改正するに至ったのは、果して農民にとって

恩典といわれるだろうか。

③明治14年池田政章の意見書によると、

賂間切村の共同負債は271,020余円に及び、しかも負債と税額の重きとを以って、村

民の窮迫甚だし<、遂に子女を売って租税に充つるものあり……」とあり、しかも「逐年

窮迫するに随い漸次苛酷収數民の骨血を絞尽して復余誼なきに至る」とある。

第3節通貨制度の変遷

沖繩には古くから貿易のために中国の通貨が流通し,また日本の寛永通宝も

流通したが国内には③鳩目銭といって,鳩の目のような小貨があって,17世

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紀初頭から外来の1文銭が鳩目の50文がえであった。17世紀前半この鳩目銭を薩摩で造ってもらったことがあり,その後だんだん減ってきたので,貢糖制度のはじまってから8年後の(明暦元年)1655年には,先に砂糖とうこ

ん専売案をたてた当間重陳が,鹿児島に上国してその鋳造を請うことになった。

③農民の間に流通した鳩目銭は、悪質の銅を鋳つぶして造ったもので、寛永の頃日本々土で貨幣不足のため鋳造したものを山城親雲上(大和御用唐買物宰領)が、1629年に琉球に持込み、銅銭の6分の1で流通した。また1655年当間が再度の鋳造をした。

そこで薩摩では江戸幕府の私鋳銭禁止によって,すでに10年以上も藩庫に死

蔵されていた加治木銭(偽造された供:武通宝のこと)を沖縄にもって行って鳩

目銭に鋳直させることにした。これを当間銭といっている。ところがこの鳩目

銭鋳造には条件が付されていった。すなわち当時薩摩の御物座から三司官への

指令にもあるように「銭造り調へ候ば.砂糖を以て当地へ仕上ぼせ,仕るべき

由申侯,惣て脇の者商売致さざる様申付けらろべ<候事」であって当間重陳は

この死蔵の廃銭を鳩目銭に鋳かえて,それで砂糖を買い占めるようにと薩摩側

に約束してきたのである。こうしてこの当間銭鋳造はまた砂糖の私売禁止,薩

摩独占をますます強化する上に一役も二役も買ったのである。それから後(文

久元年)1861年正月26日首里王府は「御国元で小銭が少なくなったので,

銅銭1文に鉄銭2文引合で,御蔵の収入支出,領内一般に通用することになっ

た。当国でも御国元同様の引合で通用を仰せつけられたに就ては,諸座諸蔵は

座検者でよく取締り,首里・那覇・泊・久米村は横目總横目,田舎は小横目で

取締ることにする。若し違犯の者があったら夫々所罰する。Jという布令を出

した。

昨日まで同価値で通用していた銅銭と鉄銭が今日から2と1の割合に通用価値

が変動したのである。これを文替bという。元来沖縄には中国から入った洪武

通宝,永楽通宝と清の乾隆,道光,威豊の各通宝と,本土からの寛永通宝が流

通していた。もちろん固有の鳩目銭もあったが,これは近世の冊封便渡来のと

きに寛永通宝の通用によって薩琉関係が暴露するのを恐れて,中国人の目のふ

れるところだけで使ったもので,平常は王府の蔵に退蔵されていたという特殊

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な通貨であった。しかし沖繩の銭勘定はこの鳩目銭本位で,17世紀の70年

代頃から銅銭1枚すなわち本土においての1文が鳩目銭50枚に当ることにな

って、銅銭鉄銭1文銭のことを50,2枚で百丈20枚で1貢と数えていた。も

ともと銅銭1枚を1文というのは,宝町時代に中国の開元通宝の重さを1文目

とするところから重さの単位にしたのにはじまるが,寛永通宝などすべて1文

と数えた。1600年徳川幕府はその成立とともに貨弊鋳造権を独占し,金銀

貨の鋳造は特に許可を与えた金座銀座に請負わせて,その一部を運上として幕

府に納めさせ,残りは法定価格で通用させた。銅銭は幕府直営の銭座で鋳造し

たが,時にしたがって江戸,大阪,京都と場所をかえて、慶長通宝元和通宝など

をつくり,寛永15年(1656年)もっとも広く通用した寛永通宝を鋳造し

た。その後(天保6年)1855年には天保通宝を,1865年には文久通宝

など鋳造し,なお元文4年(1759年)を万延元年(1860)には,寛永

通宝の銘をもつ鉄銭をつくった。貨弊鋳造権の独占は幕府の重要な財源であっ

て,財政が窮乏すると,貨弊の品位を下げて改鋳し,その利益で財政の欠陥を

補った。しかしその都度物価は変動し,経済を混乱せしめたことが少なくなか

った。銅銭は昔から各地でひそかに鋳造したものもあって,悪貨がいつの間に

か混在するようになって流通していた。沖繩には16世紀ごろから博多商人らぴた・

Iとよって本土の鍵銭が流れこんでいたのであるが,元文,万延の鉄銭,寛永通

宝とともに,仙台通宝まで薩摩を通じて沖繩にも流れこんでいて銅銭と同じく

50文に通用していたと思われる。島津藩では斉彬死後忠義の時代に,海防軍

備一すなわち大砲小銃の鋳造がさかんで,そのため銅の需要が多く銅価の騰貴

を来たし,沖繩にも文替bを申しつけてきた。その頃島津忠義の父久光は後hL

であったが,1862年久光は幕府に対して「近来琉球にイギリス・アメリカ

フランスの船がきて積年在留し,守衛その他に多大の餐用をかけ,藩が疲弊し

ているからという理由で,銅銭の琉球通宝の鋳造を幕府に願い出た。幕府は琉

球通宝がその形状,量目,価格等が天保通宝と同だったので難色を兇せたが,

島津は大阪の医師安田某を介して幕府の勘定奉行小栗上野介にうまく取り入っ

て「5年間1年に百万両運上として1~2割の条件で許可することにした。」

すなわち島津は琉球通宝の鋳造許可を利用して天保通宝の私鋳を企て,その鋳

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造許可を利用して天通宝の私鋳を企てたのであった。そこで大阪の安田に鋳造

を請負わすことにした。この条件は鋳銭1枚の実費三拾六銭,それを六拾四文

で藩に納め、藩はこれを百二拾四文に通用せしめたもので,安田の利得は実費の

約2倍に及ぶ莫大な額となった。そのうちに安田に対する嫌疑がかかり,安田

は幕府のスパイであるとでっちあげられ,役目を免ぜられた゜その後に市来西

郎が琉球通宝鋳造掛に任命され,島津直営の事業となった。こうして1865

年から1日鋳造高4千両61か月に10万両を造りあげていろ。同年7月には

50万両を造り,これから天宝通宝に切りかえていろ。薩摩のやり口がいかに

卑劣であったか明らかである。このような手段で5か年間の鋳造高290余万

両(このうち267万両が天宝通宝であった。)

そのために銅銭1枚を鉄銭4文に文引合とするが,これがために物価は暴騰し,

止むを得ず同年6月28日には物価司なろ機関をおいて取締らせることにして

いろ。この状況を年次別に見ろと,

1864年2月には銅銭1文を鉄銭2文の文引合

1864年6月には銅銭1文を鉄銭5文に文引合

1865年2月には銅銭1文を鉄銭4文に文引合

1865年6月には銅銭1文を鉄銭6文に文引合

1868年7月には銅銭1文を鉄銭24文に文引合

1868年9月には銅銭1文を鉄銭52文に文引合

すなわち7年,か月に8回も文替bがあり,銅銭の法定価格が52倍になると

いう現象をみた。こうなると民衆はどうしたらよいかわからなくなり,虚脱し

た人間のように薩摩の命令にただ従う外なかった模様である6(比嘉春潮沖

繩の歴史551~556頁)以上は貨弊通用の変遷の概略を述べたに過ぎな

いが,當間親雲上重陳が鋳造したという当間銭とはどんなものであったか。当間

重陳はもと大隅の住人伊地知太郎左衛間重陳といい,薩摩の内令を受けて渡琉し,

小禄間切当間の地頭職を賜わって,当間親雲上となり明暦(1656年)2年

上国し,加治木廃銭を移入して,越来間切池原村を那覇の奥武山の2か所に於

て銭貨を鋳造していろ。当間銭というのは鳩目銭の一種であろうといわれている。

もっとも本来の鳩目銭はこの当間銭より以前に鋳造されており,その価値は銅

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銭1文で鳩目銭50文替であり,通常銅銭20文を二重ニニーと称え,鳩目銭は1ちゅな一

貫文でつまり100個を一連として通用され,これを-繩とし、い,十連すなわ

ち十貫文を綱ととなえていた。(その意味で永楽銭のような銅銭をばシヨウヱニと唱えていた。)

慶長,元和の頃支那銭の輸入が絶えて本土では市上の流通が不自由をきわめた

ので,薩摩藩では洪武銭や宣徳銭を贋造して使用したが,これが所謂加治木銭で

あった。ところがこの加治木銭はきわめて悪質であったので通用が嫌われ廃銭

同様になって,藩庫に退蔵されたという。それを当間親雲上が琉球に持ち込んだ

ということになる。本土においては宝町幕府以来絶えず選銭令が出され,カケ

銭ヨー旦銭等といわれる甚だしいキズ物以外は勝手に撰り好みをして通用を拒む

事を堅く停止されていた。江戸時代になっても,洪武宣徳のコロ銭は江戸の

町からしめ出されて,京阪地方に駆遂され京銭などといわれていたが,この悪

貨が琉球にも入ったというわけである。冊封使徐葆光の伝信録にも,「間々|日

銭あり磨漫する処或は洪武の字あり」といっているのはこのコロ銭のことであ

る。

内務省文書に次のような記録がある。(内務省文書とはもと首里王庁の記録で

廃藩のとき外務省に引き釧唐られ,後内務省に移管された書類である。)

鳩目銭印古候付,御改被仰付侯間6月18日より9月50日限り貫調奉行阿嘉

親雲上,渡慶次親雲上,長浜親雲上引合,印可被申請候,勿論一貫以内に前々之被

鳩目,当間親雲上鋳出之物と貫交不在。別々貫調侯様二那覇,久米村中,堅可

触護侯,此旨依御差図如此候

丑八月八日小波津親雲上

森原親雲上

里主御物城両長史

とれによって当間銭が鳩目銭の一種であることが明らかである。また元禄9年(’

696年)5月16日の文書によると

此以前は京銭一貫文二銀子十二匁替之処十三匁替二為被遣之旨,去秋流球仮屋

方より申来候有来の通十=匁替に西茂請事引合難致,其上世間不自由之万に可

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罷成侯間此節より一匁,三貢七百文替申渡侯割とあるが,京銭l貫文銀十二一一

』酉L2D交換歩合は次の通り相場であって,これは伝信録にも「寛永銭毎百i直り国

銀一銭二分」といっていることに当る。この相場によると銀一匁は京銭八十三文

強に当る勘定である。ところが銀一匁,三貫七百文の歩合になると,琉球で行なわれていた京銭の価は約44分1の価しかなかったことになる。勘つまり寛

永銭1枚に対して44枚という勘定になる。この44文替の小銭が当間銭とい

うことであって,これは外法の直径6分,重量4分で従来の鳩目銭よりやや大

目のものであったことは文書からも窺えろ。にも拘らず銅銭の44分1程度の

価しかなかったものを,一貫,銀十二匁に通用されていた。それをさらに銀十

三匁替に引上げようとしたため,さまざま江形で請歎してやっと実価通りに引

下げたことになっていろ。それでは琉球ではなぜ銭相場が高くなると,農民が

迷惑するかというと,各地頭が領内の農民に対して庸役を課する特権があり,

しかもそれは物品代納になっていろ。その物品は銭が高くなると物が安くなる

ので,百姓の負担は増してくる。この関係は薩摩の課税に対しても同様に言え

ることである。(東恩納寛惇一南島論攻181~190頁)農民の物品代納は

作得夫銭といって各間切に諸品定代帳がそなえつけられておった。ところがこ

の定代張というのは,値段表ができて以来1度も改正されたととがなく,時が

たつにつれて市価より甚だし〈低廉なものになっていった。にも拘らず銅銭相

場が大きく変動し,銅銭1貫文が鳩目の52倍になっても,元の価格で作得夫

銭をとりあげようというのであるから,鳩目銭の価値が殆んどないと同様に百

姓はただ働きをして差上げるのと変らないということになる。例えば1865

年には黒糖百斤の市価が銅銭180貫文であったが,それを地頭衆が作得夫銭

として徴収すると,鳩目銭勘定であるから市価の52分1でこれを銅銭に直す

と,5貫6百25文になり,地頭は市場で黒糖5斤を買う値段で,百斤の黒糖

を徴収することができた勘定である。こうして地頭衆は農民をしぼりとってす

るすると資本家になりすましてしまうのである。またこの事情が沖繩の資本主

義経済を長く破行的な状態においた原因でもあったのである。この沖繩経済を

歪めた鳩目政策とはどんなものであろうか。沖縄において鳩目銭の使用を強要

したのは支那貿易によって銅銭の流出するのを懸念したことによるのであって,

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、。

冊封使一行滞在中は銅銭の通用を禁じ,専ら鳩目銭を使わすことにしていた。

久米村日記の廻文に(1719年享保4年6月5日)「冠船御滞在中,京銭相

用侯而者御難題相成候付,此程より諸払万鳩目分相渡京銭取交致通用,那覇久

米村之儀は冠船御入津之日より京銭通用1向召留候様,段々被仰渡置趣有之候

処,今程於市鳩目銭通用不致由,相聞得候,今躰二而者冠船御入津被成候而茂,

鳩目銭通用差支可申積候間,首里市二而致通用,那覇久米村之儀者来ル6日よ

り京銭致通用候儀一向被召留候,急度御用意御蔵之申出,鳩目銭引替可致通用

侯,若違背之者ハ横目二而致見聞申出候様被仰付置候条,此分ケ支配中堅申渡

旨御差図二而候以上。

⑨但来有之内冠船入津被成候ハパ、先立被仰渡置候通早速より鳩目分相用侯

とあり.かような事実は公然の秘密であったらしく冊封使もこれを知悉していた

らしい。(前項参照)徐葆光の伝信録には「平日皆寛永通宝銭,臨時易之,使

還則復其1日」といい,また李鼎元は「球人新製封舟回即穀之,蓋國中銭少,寛

永銭銅質又美恐中国人買去,収蔵之,特製此銭,応用市中,無銭以此,其用心

良苦笑」つまり銅銭の流出をおそれたのは寧ろ薩摩側であって,琉球ではただ寛

永銭を使用したことから,薩摩との関係が暴露して中国との貿易の妨になりはし

ないかと心配したまでである。この事は「旅行人心得条書」によって知られろ。

③明治13年沖縄県日誌に鳩目銭の情況がある。「内務郷二通牒ス、鳩目銭ト称スルハ

ー種ノ小青銅銭デ今ヲ遡ノレ246年即チ明暦二年故尚慎王ノ世鋳造セラレ其ノ後全ク廃物化

シ、旧藩庫へ蓄蔵致居、廃藩の剛引継タルモノナリ、鳩目銭1248斤5合」

硫球之儀銭不足侯ハ,唐銭取交可相用之処,唐銭は1えん見不申,間々日本

銭相見得候儀疑敷儀二侯。何様訳二而右通候哉○

琉球之儀は鳩目銭とて,他国之分と相替候故前代は唐より度々銭拝領仕候付而

流銭取交相用候処,其以後1向銭不成下侯,右付而8年数相歴り次第唐銭漸々

少ク罷成最早及払底,国中鳩目銭迄二而ハ不足仕差迫侯故,末々之者共ハ宝島

人持渡候銭取交相用申者も間々有之候」。とあることによって明らかで,単に

国内で使用しなかったばかりでなく,旅行人が支那に携滞して行く事も禁制で

あったらしく,福州にあった琉球館からも度々この事に関する照会があった事

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が知られていろ。

③(1)1750年頃から貨幣の流通は都市、農村に行きわたり、貧富の差も甚だし<なった。富者は貴族と那覇商人たちで、貧者は租税を負担している農民、下男、下女という人

々で彼等には金銭の流通は関係がなかった。

③⑪金一両=銀60匁=銭4000文銀1匁=銭666文1匁45分を1匁5分として銀1.5匁=鳩目1000文、銀1匁666文すなわち銭666文=鳩目666文である。

第4節資本主義経済の発達

明治12年廃藩置県後の糖業のかなり急速な発達によって,農村経済にも貨

弊経済の浸透する条件が準備されてきたと。一方那覇,首里の都市地区に形成さ

れた商業市場を媒介として都市を農村の経済的結合が強められ,県経済と全国

経済との結合を促進する条件も準備された。いわば県経済の内部に貨弊の流通

を前提とした資本主義的要素が緩慢ながら形成されていった。明治15年の國

庫支出總額62万5千7百90円のうち勧業貸下金として6万8千8百67円

が糖業保護遂行資金となったことなどは資本主義的要素を形成する上に大いに

役立った。この模様について1878年(明治11年)沖繩を訪れた渡辺重綱

は,那覇市場の概況を次のように報告している。「市場は西村東村の間にあり,

50間4万余,縦横に区分し,衣類・食物は勿論風百の有用什器を売却す,商

人は悉く女子なり、小技なる者多く老婆少なし,従来この地の婦女言う。夫1人

を養い兼ねる者は世にあるまじと,実に然り、機織行商、農耕.勤苦して生を営

tRo驚くに堪えたり,通貨は寛永銭に限り金,銀貨,紙幣を用いず,故に高物

価を購入する人,馬を以て其の鳩目銭を運輸す。従来女子に文字を学ばせず,

且つ算数を知らず只胸記のみ而して分量の差なし,其の販売所は地上に藁莚或

は流球莚をしき,前に小机或は箱をおき物品を並ぶ,毎日午前9時より午後9

時に至る雑沓甚だし-(琉球漫録)

この報告によると那覇ではかなり商業市場を媒介とした交換経済に依存してい

たことが窺える。交換手段としての貨幣も,日本本土の新貨や紙幣は流通せず

専ら旧銅銭が流通していたようである。明治16年沖繩における商業及び貨幣

流通の状況を,日本金融史資料によって摘記すると,「市中の景状は漸次旺盛

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に赴くが如く,商店回を遂うて増加し殆ど其面目を一新したり,是他なし、内地

商業衰頽の余6其方向を樽じて,手をこの僻遠孤島に下したる者多きに依らん。蓋し

内地との交通未だ全く遍からず,随って商業世界の変動を受くること甚だしか

らずと錐も,重要の物産たる砂糖反布の類は非常の低落に逢い,農工共に其の

困難を訴えざるなき今日にして,独り商業旺。盛なるを得んや、況んや弾丸黒子の

地に数多くの商店を開き各々その利老競はんとするに於ておや,故に其の旺盛

なるが如きは,徒らに外見に過ぎずして其実内地は一般の状勢に沈愉せり,之

がため市中の金融甚だ緩慢の徴あり,然れども田舎地方に於ては非常の逼迫を

告げ随って資金の需要多しと雛も,是唯地方の一部分に過ぎず,概して閑況に

在りと謂うべし,この緩慢なろに拘らず金利は日歩常に5,6銭の間を往来せ

り。又貨幣流通の景況を察するに客年と反対の情況を顕出し,従来紙幣を嫌忌

せしもの今反って之を欲望すろを以て市中は新旧銅貨充満し,取引上授受の不

便を訴え、ために銅貨と紙幣の間その差を生じ,交換歩合は百分一以上に達する

に至れり」。と。即ち置県後数年にして本土と同一の貨幣紙幣が流通したわけ

であるが,このことは商業の展開に有利な条件を展開しまた不利な条件が形成

されたことを意味する。このような傾向を促進したのが寄留商人たちであった。

太田朝敷氏は県政50年史166頁に次のように述べられた。「明治15年、6

年の頃から本土の商人及び役人となってくる者年々増加し,警察官の如きは殆

ど鹿児島商人が占領するという有様であった。こうして明治20年頃からは寄

留商人といえば,社会的にも頗る権威のある団体であったが,その寄留商人と

いうのはすなわち鹿児島商人の別名であった。いわば沖繩の商業はこの寄留商

人に握られているような観があった。また流球見聞雑誌によると,「那覇の重

なる通り町には相応に大なる商店あれども,是れは何れも内地商人の店にて,

土人の店とては更に一軒もあるなし。元来士人は店を張らざる習慣にて,如何

なる商人にても皆行商に非ざるなし,近時内地人の風を見習イ,間に裏通りな

どの窮巷に小店を張る者なきに非ずと錐も、,何れも荒物屋などにて,名物の飛

白,反物,朱塗物の如き更に商店あることなし。既に商店の設けなし,是を以

て之れに代うろに市場なるものあり。」とある。そして那覇市場の概況を次の

如く報告していろ。「市場は港中に2か所あり,其の1を那覇東村なろ沖繩病

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院の横通りとし,其2を塩浜とす。塩浜の市場は,全く薩摩芋の如き植物市場

にして見るに足らず,只盛なろは東村の市場なり。是は東京日本橋とも云うべ

き所にして,先ず以て那覇の中心と見えたり。さてここに露店を張て商う品々

は青物あり,古手あり,呉服あり,紙あり,豆腐,瀬戸物,米穀,稗餅,傘,草j

霞,豚肉,馬尾,袋物,キセル,線香,雑菓子,塩,油,笄,轡,生難,

其他枚挙に邉あらず,而して、この露店商人は更に1人男子あるなく,總ベてこ

れ老若の婦人のみなり。この婦人が更に規制もなく,-面の広場に或は前向き

に或は後向きに,或は横向きに,或は数人並び或は三々五々離れ,勝手次第に

店を張り,何か訳の分らぬことを八釜敷く鴎り居る景況は実に人をして一見奇

具に堪えざらしむ。予が当地に滞在中此市場の景況程奇を感じたるものもし。

この市場は早期より夜8時ごろまで継続し,大抵の雨天にても休むことなし。

日中は東京縁日商人の如く大傘老立つるものもあり,反物屋の如きは,風そ戸

板2枚位の大きさの土間店なりと錐も,大抵紙屋小間物屋の如きは5尺2尺位

商業戸数の推移

111

卸売商 仲買商 ノLI 、 売商

年次總数

UUUUU

那覇首里總数那覇首里其他0■GI、

總数 那覇 首.里 其他

年年年年年年年年年年

0125456789

2222222222

治明 01155

11111

8059

1525

521

098005

1111

7918

2155

、25555555釦

2575108912

2222222546

2921

4222

7511

1798

2524

、455557100

111

11

b、、、弓■IO二br1▲24

1702

2027

1406

2446

2992

2897

5601

5580

5759

5916

460

492

565

576

752

665

1002

869

1459

1255

806

1076

541

1070

1086

1155

262

1005

908

996

456

459

497

1100

1174

1079

1557

1508

1412

1667

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の小さき箱をおき其上に物品を陳列したろものなり」と,ある。明治20年代

の商業戸数の推移は次表の通りである。これによると,卸売商,仲買商は次第

に増加しつつあったが,殆ど那覇・首里に集中していろ。

これらの商業従事者を媒介として農村へも徐々に貨幣経済が浸透しはじめ,

商品流通網が形成されるに至ったことは明らかである。前述のように農村の生

活は自給自足を原則としながらも次第に商品経済への依存度を深めつつあった

わけで,主食副食物以外の品用雑貨に至っては,その傾向は益々顕著になりつ

つあった。こうして県内に一定の商品流通網が形成され,都市と農村を結合す

る条件が準備されろと,他県との移出入交易が促進され,貨幣経済の拡大が必

然的な傾向となったのである。輸移出入物の価格を表示すると次の通りである。

輸移出物の価格

叩目|明22年25年’24年25年]/5-688

F-L

4611

6b6[

91AdZ

6.168

164

466

112

品目 明22年 25年 24年 25年 26年

糖し参草貝耕布布布布筵盛器他

人鰯光綿紬上上地蕉

砂フ海海夜木紺白白芭藺泡漆其

265548

6427

1,918

1,241

12854

52j56

12M16

52P24

2206

4p22

ROO5

45705

4255

228280

871,057

605159

2;150

5618

14804

112587

4p81

26565

1,757

2852

ス570

85129

11,856

886266

922966

5288

1,441

4β94

Z904

88814

5548

2875

1,142

2294

6506

72841

4651

5R147

1180,420

472,195

4,584

1,001

5,600

52,487

95,579

1,285

75,579

4,249

65β55

5,411

41,551

796,754

1075,688

1,520

5,460

6,560

91,544

5,525

6,168.

72,715

2,942

10,647

1274,565

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価格輸移入物

ロ加

廃藩置県後沖繩に資本主義的生産様式をとり入れて,諸企業が成立するのは日

清戦争後とりわけ土地整理以後のことである。しかし明治10年代にはすでに

一定の貨幣経済の基礎の上に,個々の産業部門に於て資本主義的要素をもった

諸企業が形成され始めた。すなわち商業,金融,海運,製造業などの部分にわ

ずかながら資本家による新式の企業が形成されていた。これらの企業は資本主

義企業としてはあまりにも零細で,むしろマニユフアクチユア段階の企業とい

った方が正しいかも知れない。例えば明治23年12月調査の企業の状況をみると,

113

目ロロロ 明治22年 25年 24年 25年 26年

米米米豆麦麦麦油酒布總コン

パ→錫の計

栗茶

玄白糯大大小裸石清昆洋タソ

442970

191,151

5167

4j22

5424

12178

2β82

55PO7

54460

20,740

41,541

5,521

15Z512

4る85

1ス505

6400

165681

1178644

860476

212205

Z565

1ス875

8P61

1,470

85J670

22172

8p39

48465

5,556

8Z840

1,754

12β48

5198

1606167

29Z659

254178

4276

52;151

200

18867

51,307

15520

12542

66β41

4799

52578

5850

21,560

2945

1015β99

185455

198641

6,91

42221

15215

1,217

66508

50209

71,675

6621

45PO8

6155

4ス024

6785

855151

1081698

522206

5540

62j58

1ス892

51,475

105618

8J67

78665

Z452

90712

スD70

26552

18715

112ス515

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上のうち沖繩織工場の労働者が比較的多いのはこの工場が明治政府によって,

失業士族の救済手段として設置されたものであり,勧業政策の見本ともなるべ

きものであったからであろうか。なお明治27年の調査によると,マニユフアクチ

ユア的工場の代表的なものは次の通りである。

114

社名 資本金 営業

沖繩社

沖繩物産会社

海運会社

広運社

同興店

共保幹

沖繩産業会社

製造工場

(沖繩織工場)

紙製紙所

沖縄産業会社

(醤油・藍)

円円〃〃〃〃〃〃

〃〃

00000592

09

00000150

05

00000550

25

5qq50a4X

t4

2871

反布監定

蕪腿製造

海運業

貸金・預金

味噌・醤油藍

職工

25,400人

252人

4,400人

工場名 種類 製品数重

米田塗器

鋳物舎

沖繩織工場

織工所

エキス製造所

⑧組

巴組

塗器

鉄車、鍋

紺地耕布、白地耕布

木綿紺地耕

キエス

キニニス

楊梅皮エキス

楊梅皮エキス

21,100

1,550

1,86110

1,500

15,500ポンド

2570

55,000

15,000

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このような新しい企業の導入に大きな役割を果したのは、前述のように寄留

商人であったことは注目しなければならない。この外来者は明治20年代には

年平均2500名以上にのぼり、主として鹿児島県からの移住者であった。もち

ろんこの中には官吏あり、教員などが含まれているが、その大部分は経済活動

に従事していた。これらの活動舞台は商業をはじの、金融業、移出入貿易、海

運業、鉱山開発、開墾などの分野であった。商業の面についていえば、砂糖、

米穀、反布などの卸売商、仲買商は殆んど寄留商人によって占められていた。

しかもこの寄留商人の多くが、前記のように、鹿児島から入りこんできた商人

で、もとより商業の新開地としてきたのであるから、随分ぼろい儲けをしたも

のである。明治50年ごろまでは、米1俵から1円以上の利益がなければもう

けとはいえない、という位であるから移出の砂糖の如きは尚更である。一(太

田朝敷県政50年)

人ロ動態

1952年(明治52年)琉球新報によると、寄留商人の1人永井吉太郎は、

明治20年前後の商人の活動をふりかえって次のように述べている。「私が来

県したのは明治20年8月で、丁度15才の小僧であった。そのころ他県人の

商人は僅々2,30)名位で米穀商をしていた。中にも中馬政次郎、田代、大坪、

飛岡、海江田、若松、d牧、吉田、古賀、島名、鮫島、井口、慶田等の諸氏で、

雑貨商では藤屋、平尾、若松、塩屋等の諸氏がおられた。私が砂糖商に手を出

した当時は、今日の如く砂糖委託問屋は勿論なく、自身で、田舎にでかけ、直

接交渉で買い歩いたものだ。電報もなく不定期船のもたらす手紙が唯一の中央

商況を知る機関であった。」と述懐している。次に移出入交易の面に於ても、

115

年次 出人口 他県出寄留 入人口 他府県入寄留

年〃〃〃〃〃〃〃〃

901254567

122222222

治明

2,824人5,1115,5705,5264,2155,0555,6176,2126,760

2,665人21545,5055,2585,7604,4074,4074,9255,816

5,855人6,580Z552ス4418,5708184

10,74711,89512,452

1:黙5,8512,264

1,7201,8172,21924112,454

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砂糖、反布、穀類、その他重要物産の移出入を取扱うのはすべて寄留商人であ

って、彼等は明治政府や県当局の旧慣温存政策にもとづく制度的差別を巧みに

利用した。例えば明治27年11月に鹿児島商議所より大蔵大臣宛に提出された

「煙草税則改正の儀につき建議」によると、寄蘭商人が制度的差別をいかに巧

妙に利用していたかを知ることができる。「抑モ沖縄県ハ民度風俗素卜他府県卜同一ナ

ラザル老以テ、施政ノ上自ヲ他卜区別スル処ナキヲ得ズ、従テ諸般の法律中沖

繩県二限リテ施行セザルモノ多クロリチ煙草税則ノ卯キ亦其ノ中二属セリ、而シ

テ此ノ税則発布ノ当時に於テ第55条ノ取除キハ、最モ適当ノ規定ナリシモ、

爾来交通発達シ、次第二商業ノ繁盛ヲカロフルヤ、他府県ヨリ続々移住開店ヲ為

セルモノアリテ、旧来の面目大ニー新シ其進歩ノ度敢テ他県ノ或モノニ比シ

テ多ク護ル処ナキニ至しり、是二於テ平、近来狡智猪才二長ジタル者、自ラ沖

繩県二移住シ又ハ支店ヲ開設シテ盛二煙草製造業ヲ輿シ、名ヲ飲料品二托シテ

陸続他府県二向ツテ無印紙煙草ヲ輸出シ、以テ不正ノ利益ヲ営ムモノ益々多キ

ヲカロヘ、他ノIE業者ハ之ガタメ大二妨碍ヲ受ケ甚ダシキハ為二倒産セントスル

サヘ現ワレントス○浩シ今ニシテ之ガ矯弊策ヲ識ゼズン'漠ノ流毒遂二那辺ニ達

スルヤ計り知ルベカザルナリo或ハ日ク仮令沖繩県二於テ無印

煉草ヲ製造ハ他府県=向ソテ輸出スルモ此場合二当テハ税則第35

条但書の規定アリ○何ゾ憂フル二足ランヤト、然リ然しドモ彼好商議ハ法ヲ脱

スルニ巧ニシテ容易二之ヲ適用スルノ余地ヲ与ヘズ、彼等ノ之ヲ輸出スノレヤ普

通商売品トナサズシテ、註文ヲ受ケタル飲料品トナセリ。故二販売ノ際ソノ形

跡ヲ認〆、且其現品ヲ差押フルコトアルモ、其売渡人二於テハ之ヲ売買センモ

ノニ非ズシテ、実際贈与セシナリト答弁シ、而シテ其煙草ニ沖縄県何町何某製

造ノ記名シアルトキハ毫モ捕捉スル点ナク如何トモ為シ能ハザルナリ、斯ノ加

キ有様ナルヲ以テ、近年沖縄県ヨリハ続々無印紙煙草ヲ輸出シテ公然禅ル所ナ

ク製造事業日1日盛大二進ミ其ノ影響ハ他県正業者ノ頭上二及ビ、之ガ為二豪

ル損害ダル実二鮮勘ナラザルナリ、今近年鹿児島県ヨリ沖縄県二輸出セン葉煙

草ノ数量ヲ調ベテ見ルー、

116

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ト云う現状ニシテ、年々葉煙草

ノ輸出高ノ増加セルヲ以テ考フ

ルモ、如何二肢等好商箪ノ事業

ガ年々盛大二進ミツツアルヤヲ

推知スルニ足ラン、従前沖

繩県二於テハ煙草製造者ノ数

ハ5,6名二週ギザリシニ、今ヤ60余名二連シタリト云う、豈驚ク可キニア

ラズヤ、天し斯ノ如ク彼ノ輩ノ年々増殖スルハ取リモ直サズ、他府県正業者ノ

損害ヲ意味スルモノニシテ、彼ノ発達ハ此ノ衰頽ヲ証拠立ツルモノナリ、而シ

テ彼し好商輩ノ為二直接ノ損害ヲ蒙ムルモノハ本県煙草製造者ナリト錐モ、我

国全体ノ同業者モ亦間接ノ損害ヲ受ケザルヲ得ズ、既二法律規則ヲ遵奉シ正当

ノ業務ヲ宮ムモノ不正業者ノタメニ防碍セラレ、其営業ノ安全卜利益トヲ享受

スルコト能ハザルアラパ、須ラク之力救済ノ策ヲ講ゼザル可カラズ、是本会議

所ノ敢テ尊厳ヲ犯シテ高慮ヲ煩ハス所以ナリ、然ラパロリチ如何セバ可ナラン乎、

曰ク唯々煙草税則第55条ノ「沖繩県及」ノ4字ヲ削除シ、沖繩県二於テモ亦

他府県同様税則ノ全部ヲ施行スルニアルノミ。」

(明治27年11月鹿児島商業会議所50年史)

すなわち狡智滑才に長じたる寄留商人が、「自ら沖繩に移住し、又は支店を開.

設して盛んに煙草製造業を興し、沖繩県に対する制度的な差別を巧みに利用し

て、不正の利益をあげていたこと。第2に寄留商人の不正営業が、鹿児島県を

はじめとする本土の同業者の利益をおびやかすものであったことなどの点であ

る。輸出入交易の面における寄留商人と、他府県同業者との利害対立について

は、例えばZmような報告もある。(明治21年琉球見聞雑記による)帥繩

の産物は砂糖、泡盛、米、緋,織、塗惣等を以て著名なりとす。然るに近時沖

繩より泡盛を鹿児島に輸出し、該地に於て販売する高勘なから式殆ど鹿児島

産の焼酎を圧倒せんとする有様にて、該地焼酎製造家の不平甚だし、菱を以

て鹿児島県よりの上申とかにより、先頃沖繩泡盛に出港税を課せられることと

なり、先以て鹿児島焼酎製造家の不平を慰するに足りたるも、さて舷に困りた

117

年次 数 仕送人

明治21年

'22年

23年

24年

25年

斤32271

85650

88484

已夕●|DC●〃DP

60721

9465

111

人人人人人

35-49

11222

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ること起りたるは鹿児島米屋の不平なりとすと元来鹿児島の米は概ね沖繩に輸出し以て

泡盛を醸造する資材に供することなりしが、jIt縄にては右出港税の-件よりして大

いに泡盛醸造高を減じたるより、米の需要に著しく滅却を来たし、終に鹿児島

米屋の頭痛となるに至れりとぞ、実に世間の事と請うものは双方共によきこと

は仲々望む可からざることなり。」と

この泡盛を鹿児島その他に移出するものは寄留商人であり、且つまた泡盛の原

料となる米を沖縄へ移入するのも寄留商人であるが.これらの寄留商人の利害は鹿児島の米

屋の禾嵯;とlEH3tするもののl;l酌製造家の禾膳とは対立していたから、明治政府は鹿児島の

焼酎製造家の利益を擁護する上から、UT台21年11月1日沖縄県酒類出港税llUを公布施

行するに至ったわけである。第5は金融の面に於ける寄留商人の活動である。

廃藩置県後最初の近代的金融機関として第152国立銀行が明治政府の勧業政策

の延長として設置されたが、その創設者も鹿児島士族を中心とする寄留商人た

ちであった。明治政府に抵抗した薩摩士族は鹿児島県庁、役所から追放された

のを契機として、この士族たちが沖繩に入りこんで来、新事業を試み金儲けに

奔走した。すなわち第152国立銀行も那覇:東村の寄留商人村田孫平宅に於て士

族たちと結托して創立されていろなどが好例であろう。すなわち

取締役頭取福島巌・士族

取締役松田通信士族

取締役児玉東一士族

取締役村田孫平平民(寄留商人)

支配人徳田作兵衛平民(寄留商人)

この銀行は県庁の公金を取扱う外には官吏や寄留商人の当座預金や貯金など

を取扱うだけで、県民には殆ど利用されなかった。明治16年の営業状況でさ

え、年間254万7820円年末の貸付金高5万5105円、これを利用して前記士

族たちは各種の企業に手を延ばした。即ち児玉東一外9名の寄留商人が営業許

可願を出し、松田通信は仲島大瀬から仲毛に至る埋立事業を起していろ。また

明治16年には第147国立銀行那覇支店が開設され、同支店が殆ど寄留商人の

手によって運営されているが如き、初代支店長田代庸之助はあたかも無官の王

様同様であったという。県政50年史にはこう記録していろ。もっとも沖繩経

118

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折に資本主義的要素を導入するパイプとして重要な役割を果していることは歪

めない。

第4には海運業における寄謂商人の活動である。明治政府は県庁の保護のもと

に、沖繩本土間の航路開拓のため,明治15年三菱汽船会社に委託し、鹿児島

商人の林次郎左衛門が沖繩開運会社を設立して、航路の独占をさせた如きである。

第5に鉱111開発における寄留商人の活躍である。西表島の鉱山(石炭)は明

治15年奈良原幸五郎と伊地知貞馨の2人が発議して、炭坑採堀に着手せしめ

ている。明治18年三井物産会社長より、内離宮山に於て44万1,220坪の

石炭採堀鉱区を出願し、鉱山開発事業は本格化しはじめたo

③西表島の炭坑は1853年ペリー来航の際地質調査に当ったR・Gジョーンズが発見

明治5年伊知地小十郎が検分し、石炭採掘が始められた。

第6に開墾事業もまた寄留商人の活動が注目されている。明治政府が勧業政

策の一環として開墾-奪業を奨励したために、寄留商人たちは甘蕨栽培と砂糖生

産を目的として.おもに八重山で開墾事業に着手した。もっとも八重山島にお

ける開墾は明治24年1月に規程ができたもので、爾来移住開墾を出願する者

が多く.明治26年までに許可されたものが81件.其の面積385町歩余り

に達している。そのうち明治24年12月中川虎之助外9名に対し、石垣間切

名蔵村に50町歩の開墾事業が許可され、同25年には金城三良外5名に対し

同名蔵村に30町歩、さらに同年7月阪本豊助外2名に対し、名蔵村の浦田原

に11町歩4反2畝9歩とそれぞれ許可されている。中でも中川虎之助は開

墾許可地を基礎として、911町歩余りを開墾して中川農場を形成し、更に同

氏は寄留商人14人を率いて明治26年春までには16町1反歩を開墾してい

る。そうして同26年7月には鳥海清左衛門、殿木善兵衛中川民七、小室信夫、

松岡康毅、藤本文策、中村旭、久保吉之助等が連名で洋式の製糖場を建設する

目的で、2,500町歩の開墾借地を出願して許可され、同年12月までには凡

そ1,500町歩の開墾をしている。この製糖場建設に登場する人物の多くは政

府の高官や沖縄県知事と関係の深い人々であるが、その一人殿木善兵衛は東京

市砂糖問屋商人で.すでに明治24年には中川虎之助の渡島に際してこれを結

119

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び、その製糖の販売を行なうと称して、開墾借地請願人に加わっている。

こうして開墾組合は砂糖製造とともに大農法による甘蕨栽培を意図したが、実

際の経営は中川虎之助の経営にまかされ、その経営も計画の実現をみることな

く終っている。その他にも、開墾事業にとりかかった人々は専ら-掴千金を夢

みている者ばかりで、着実に開墾に従事する者は1人もなく、何れも短期問のうちに失敗の苦汁をなめさせられている。

その最大の原因は、開墾P罫業が八重山島民の利益とならず、従って人氏の抵抗を招いたことにあった。

第7に漁業について寄留商人の活動をみると.-木喜徳郎書記官の報告には,

「明治26年9月熊本県士族中林恭信と野田正、その他数名のものが、当島近

海の漁業を企て、漁船漁具等もすべて該県下の漁業に則とり調製し、漁夫も亦

屈強の者を選択し、己にその業に着手し、漁船も目下2隻にして、漁業適否の

実測も漸く完了したる模様なれば、本年よりはその捕獲高著し<増加するな‘

べし」といっている。

更に尚家を琉球士族が企業活動に奮起している。

明治政府は沖縄県に対しては1日慣温存政策をとり、旧来の特権の大部分を保障

されていた。特に370~380家の有禄士族は毎年百円から2千円に及ぶ金

禄の支給を受けて藩政時代より却って有利であった。とりわけ、尚家は東京に

邸宅を与えられ、1割利子付公債20万円を下附されたり、華族年金2,500

円を支給された外に、明治政府や県当局の保護によって莫大な土地を所有する

ようになった。このl日支配層の中には金禄などを商業資本や産業資本へ韓化し

て企業活動を展開する者もあらわれた。尚家を中心とする士族層の企業活動が

金禄を資金源としていたことは仲原善忠がその箸沖縄の歴史110~111頁

に次のように記録している。「1日政府の人々は尚家の資金をもって事業をやっ

ていました。鉱山・農園製造加工業・運輸・貿易・新聞等で今度さらに銀行を

つくった。農・鉱・工・商・運輸・金融・新聞等の各方面にわたり、当時の沖

縄においては、もっとも新しい資本主義的のものです。しかし、この財閥の各

種事業の経営者は、新事業の知識力も経験もなかったので、はかばかしい成長

をしません。ことにこの人々は政治的な野心が強く、自覚しつつある県民から

120

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ははげしい攻撃を受け、一方において日本本土の資本の圧力を受けています」

と。しかしこの財閥が寄留商人とともに、-沖縄経済へ資本主義的要素を導入す

る役割を果していたことは極実である。商業貿易活動においては、九一商店で

これはおもに尚家の資本で緤営され、本店を那覇にかまえも大阪・福州・台湾

・八重山に支店をおき寄留商人に対抗して沖縄本土間、或は沖縄中国間の貿易

活動を展開するとともに、沖縄県内の商業活動にもわりこんでいった。

丸-商店の八重'11支店長は首里士族の稲福政文であったが、稲福は実に剛慢不

遜な男で、士族の特権をふりまわして島民を苦しめていた。(笹森儀助による)

この支店は俗に仕繰方といわれ、蔵元の機構に似せて支店を経営し、事実番所

村長にその事務を委託したりして、尚家の物品を売買させていた。すなわち、

その商法は民衆への半強制的な押し売り買いたたきであったからである。

海運業の場合は置県以来、寄留商人によって独占されていたのを、明治20年

ごろから尚家中心に士族層が海運業へのり出し、寄留商人と対抗した。

すなわち、九一商店による貿易商業活動をささえるためのものであった。彼等

は広運会社という汽船会社を設立し、球陽丸という汽船を購入して、那覇・大

島・鹿児島・神戸・大阪への航路を開設した。

明治27年には.大いに業務を拡張してさらに1,500屯の広運丸を購入し、

また大島九も購入して営業を拡張した。

鉱山開発についても、寄留商人が西表鉱山の開発に着手したのに対して、尚

家中心の士族層は羽地村の伊差川鉱山(銅鉱)に目をつけ、その開発にのり出

している。開墾事業のうちその代表的なものは、明治18年の久米島開墾であ

ろう。1892年すなわち中川虎之助の八重山開墾着手の翌年稲福政文外10

名の首里那覇士族たちは、無産士族授産の-方途として開墾事業を出願して許

可されている。ところが彼等は.開墾事業に名をかりて、八重山の民衆を緊縛

したのみならず、復藩運動の資金を捻出する手段としたのである。すなわち.

士族たちは開墾にあたって移住人規則なるものをつくり、八重山の民衆を全く

の無報酬で使役することができるように規定もした。そのために民衆の間から

不満と苦情がうずまいた。こうして尚家の開墾事業は不成功に終ったのである。

以上のように、寄留商人や尚家を中心とする士族層の経済活動は、商品流通

121

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網の形成を促進し、県経済の個々の分野に盗本|ミ義的I奥索を導入しはじめたが,このことは一方では県経済の近代化を促進する契機となるとともに、他方では

一般農民層を新たな形態の搾取収奪の網の中に投げ入れる結果となったのである。(県史3経済参照)

③沖縄資本主義経済RHin停滞の原tIU

①明治12年廃濡の際役人の111功が打ち切られ受nK行2下人か生nFに窮した。その窮状を政府に訴えたので、Ⅱノ】治I1ij(府は15年に65万円l8flfに65万|リを父(、比た゜111ⅡIjjに政府は指令して「今後一切請lli肋iましきことをLI1lllるな」といって拝約,!『をつくって綱に調印させた。そのときMルリは廃棄するといいながら'U|治36年」」,Iwl1の完rまで採り続け、その総纐55万lIlにのぼった。この不、'1利イリが缶/kMG緤済への移『jを停滞せしめたのである。

②明治5年政府は沖細に対し、Mの新貨幣上1-万ド陵交付したか、イ|【氏はそ伽用を嫌い、nつ不慣れの;W銀日本紙幣はそのI1lIi1llIIが低落した。これを悪川して、低価の紙幣を残らず買い占め、暴利をむさぼったのが耐俄のH溜|{n人たちであった。これが停辮性第二の原因である。

参考分献

1.日本農業史

l沖縄史を考える

1.近世地方経済史料9巻・’0巻

古島敏雄

新里恵三

岩彼書店

勁草脅房

夫助敷治助蒋著

武朝朝吉良

野吉田村井

小仲太中石拙拙

吉川弘文館

史学雑誌

国民教育社

111川出版社

青林評院

南風原村史編集委員会

沖縄風土tiU社

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地割制度

県政50年

日本社会史

日本法制史

南風原村史

沖縄経済史

日本経済史大系1巻~5巻

東京大学出版会

122

Page 94: Title 沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 1(1): 31 …okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/.../6641/1/V1No1p31.pdf第1章序説 沖縄の経済社会を歴史的に瞥見すると、まず文献に見られる限りでは南西諸

沖縄県史

⑪上杉県令日記

③経済

⑭雑記

南島風土記

経済学

西洋経済史

南島の古代文化

近代沖縄の歴史と民衆

■・ロロ(

西里喜行論文沖縄県史編集委員会

新聞集成

東恩納寛惇沖縄郷土文化研究会

大内力岩波書店

大塚久雄筑摩書房

国分直一毎日新聞社

霧文讓妾沖縄歴史研究会大内力 筑摩書房

永原慶二有斐閣

奥野彦大郎農林省農業縫合研究所

拙稿(昭和25年~昭和30年)

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1.農業経済論

1.日本経済史

L南島原山勝負制の構成

1.農村採訪ノート

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