taro-握手 本文ルビ c3-4-1.pdf · 2018. 6. 13. · 握 手 あ く し ゅ 井 上 ひ さ し...

39
西

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  • 握手

    あくしゅ

    井上ひさし

    いのうえ

    上野公園に古くからある西

    うえ

    こうえん

    ふる

    せい

    理店へ、ルロイ

    道士

    ようりょう

    てん

    しゅうどう

    は時間どおりにやって来た。

    かん

    の花はもうとうに散って、

    さくら

    はな

    にはまだ

    があって、

    ざくら

    あいだ

    そのうえ動物園はお休みで、店

    どうぶつえん

    やす

    みせ

    の中は気の毒になるぐらいす

    なか

    どく

    いている。椅子から立って手

    を振って居

    を知らせると、

    どころ

  • ルロイ

    道士は、

    しゅうどう

    「呼び出したりしてすみませ

    んね。」

    と達者な日本語で声をかけな

    たっしゃ

    ほん

    こえ

    がら、こっちへ寄ってきた。

    ルロイ

    道士が日本の土を踏

    しゅうどう

    ほん

    つち

    んだのは第二次大戦

    前の

    だい

    たい

    せん

    ちょく

    ぜん

    和十五年の春、それからず

    しょう

    ねん

    はる

    っと日本暮らしだから、彼の

    ほん

    かれ

    日本語には年季が入っている。

    ほん

    ねん

    はい

    「今度故

    へ帰ることになり

    こん

    きょう

    かえ

    ました。カナダの本部

    道院

    ほん

    しゅうどういん

  • いじりでもしてのんびり

    はたけ

    暮らしましょう。さよならを言

    うために、こうして皆さんに会

    みな

    って回っているんですよ。し

    まわ

    ばらくでした。」

  • ルロイ

    道士は大きな手を

    しゅうどう

    おお

    差し出してきた。その手を見

    て思わず顔をしかめたのは、

    おも

    かお

    ヶ丘天使園の子供たちの

    ひかり

    おか

    てん

    えん

    ども

    でささやかれていた「天使

    あいだ

    てん

    の十戒」を

    に浮かべたせい

    じっかい

    あたま

    である。

    学三年の秋から高

    ちゅうがくさんねん

    あき

    こう

    校を卒

    するまでの三年半、

    こう

    そつぎょう

    さんねんはん

    わたしはルロイ

    道士が園

    しゅう

    どう

    えん

    を務める児童養護施設の厄

    ちょう

    つと

    どうよう

    せつ

    やっ

    介になっていたが、そこには幾

    かい

    いく

    つかの「べからず

    」があっ

    しゅう

  • た。子供の

    え出したもので

    ども

    かんが

    あるから、べつにたいしたべ

    からず

    ではなく、「朝のう

    しゅう

    あさ

    ちに弁当を使うべからず。(見

    べんとう

    つか

    つかると、次の日の弁当がも

    べんとう

    らえなくなるから)」、「朝晩の

    あさばん

    事は静かに食うべからず。

    しょく

    しず

    (ルロイ先生は、園児がにぎ

    せんせい

    えん

    やかに

    事をしているのを見

    しょく

    るのが好きだから)」、「洗濯

    せんたくじょう

    の手伝いは

    るべからず。

    つだ

    ことわ

    (洗濯

    主任のマイケル先生

    せんたくじょうしゅにん

    せんせい

  • は気前がいいから、きっとバ

    まえ

    ター付きパンをくれるぞ)」と

    いった式の無邪気な代物で、

    しき

    じゃ

    しろもの

    その中に、「ルロイ先生とうっ

    なか

    せんせい

    かり握手をすべからず。(二、

    あくしゅ

    三日鉛筆が握れなくなっても

    みっ

    えんぴつ

    にぎ

    知らないよ)」というのがあっ

    したのを思い出して、それで少

    おも

    すこ

    しばかり身構えたのだ。この

    がま

    「天使の十戒」が、さらにわ

    てん

    じっかい

    たしの記憶の底から、天使園

    おく

    そこ

    てん

    えん

    容されたときの光景を引

    しゅうよう

    こうけい

  • っ張り出した。

    風呂敷包みを抱えて園

    しきづつ

    かか

    えんちょうしつ

    に入っていったわたしを、ル

    はい

    ロイ

    道士は

    越しに握手

    しゅうどう

    つくえ

    あくしゅ

    で迎えて、

    むか

    「ただいまから、ここがあな

    たの家です。もう、なんの心配

    いえ

    しんぱい

    もいりませんよ。」

    と言ってくれたが、彼の握

    かれ

    あくりょく

    は万力よりも強く、しかも腕

    まんりき

    つよ

    うで

    いよく

    下させるもの

    いきお

    じょう

    だから、こっちの肘が

    の上

    ひじ

    つくえ

    うえ

  • に立ててあった聖人伝にぶつ

    せいじんでん

    かって、腕がしびれた。

    うで

    だが、顔をしかめる必要は

    かお

    ひつよう

    なかった。それは実に穏やか

    じつ

    おだ

    な握手だった。ルロイ

    道士

    あくしゅ

    しゅうどう

    人の手でも握るようにそ

    びょうにん

    にぎ

    っと握手をした。それから、

    あくしゅ

    このケベック郊外の農

    の五

    こうがい

    のうじょう

    男坊は、東

    で会った、かつ

    なんぼう

    とうきょう

    ての

    容児童たちの近

    しゅうよう

    どう

    きんきょう

    熱心に語り始めた。やがて

    ねっしん

    かた

    はじ

    ちゅう

    文した一品

    理が運ばれてき

    もん

    いちぴんりょう

    はこ

  • た。ルロイ

    道士の前にはプ

    しゅうどう

    まえ

    レーンオムレツが置かれた。

    「おいしそうですね。」

    ルロイ

    道士はオムレツの

    しゅうどう

    皿をのぞき込むようにしなが

    さら

    ら、

    のてのひらを擦り合わ

    りょう

    せる。だが、彼のてのひらは

    かれ

    もうギチギチとは鳴らない。

    あの頃はよく鳴ったのに。園

    ころ

    えん

    でありながら、ルロイ

    ちょう

    しゅう

    道士は訪問

    との会見やデス

    どう

    ほうもんきゃく

    かいけん

    クワークを避けていた。たい

  • ていは裏の

    や鶏舎にいて、

    うら

    はたけ

    けいしゃ

    子供たちの

    を作ること

    ども

    しょくりょう

    つく

    に精を出していた。そのため

    せい

    に、彼の手はいつも汚れてお

    かれ

    よご

    り、てのひらはかしの板でも

    いた

    はったように固かった。そこ

    かた

    で、あの頃のルロイ

    道士の

    ころ

    しゅうどう

    いてのひらは、擦り合わせ

    きたな

    るたびにギチギチと鳴ったも

    のだった。

    「先生の

    の人さし指は、相変

    せんせい

    ひだり

    ひと

    ゆび

    あい

    わらず不思議なかっこうをし

  • ていますね。」

    フォークを持つ手の人さし

    ひと

    指がぴんと伸びている。指の先

    ゆび

    ゆび

    さき

    の爪は潰れており、鼻くそを丸

    つめ

    つぶ

    はな

    まる

    めたようなものがこびりつい

    ている。正

    な爪はもう生え

    せいじょう

    つめ

    てこないのである。あの頃、

    ころ

    ルロイ

    道士の奇

    な爪に

    しゅうどう

    みょう

    つめ

    ついて、天使園にはこんなう

    てん

    えん

    わさが流れていた。日本にや

    なが

    ほん

    って来て二年もしないうちに

    ねん

    戦争が始まり、ルロイ

    道士

    せんそう

    はじ

    しゅうどう

  • たちは横浜から

    帆する最後

    よこはま

    しゅっぱん

    さい

    の交換船でカナダに帰ること

    こうかんせん

    かえ

    になった。ところが日本側の

    ほんがわ

    都合で、交換船は

    ごう

    こうかんせん

    しゅっぱんちゅう

    になってしまったのである。

    そして、連れていかれたとこ

    ろは丹沢の山の中。戦争が終

    たんざわ

    やま

    なか

    せんそう

    わるまで、ルロイ

    道士たち

    しゅうどう

    はここで荒れ地を開墾し、み

    かいこん

    かんと足柄茶を作らされた。

    あしがらちゃ

    つく

    そこまではいいのだが、カト

    リック者は日曜日の労働を戒

    しゃ

    にちよう

    ろうどう

    かい

  • 律で禁じられているので、ル

    りつ

    きん

    ロイ

    道士が代

    となって

    しゅうどう

    だいひょう

    監督官に、「日曜日は休ませて

    かんとくかん

    にちよう

    やす

    ほしい。その埋め合わせは、他

    の曜日にきっとする。」と申し

    よう

    もう

    入れた。すると監督官は、「大

    かんとくかん

    だい

    日本帝国の七曜

    は月月火水

    にっぽんていこく

    しちようひょう

    げつげつ

    すい

    木金金。この国には土曜も日曜

    もくきんきん

    くに

    よう

    にちよう

    もありゃせんのだ。」と叱りつ

    しか

    け、見せしめに、ルロイ

    道士

    しゅうどう

    の人さし指を木づちで思

    ひだり

    ひと

    ゆび

    おも

    い切りたたき潰したのだ。だ

    つぶ

  • から気をつけろ。ルロイ先生

    せんせい

    はいい人にはちがいないが、

    ひと

    の底では日本人を憎んでい

    こころ

    そこ

    ほんじん

    にく

    る。いつかは爆発するぞ。…

    ばくはつ

    …しかし、ルロイ先生はいつ

    せんせい

    までたっても優しかった。そ

    やさ

    ればかりかルロイ先生は、戦

    せんせい

    せん

    国の白人であるにもかかわ

    しょうこく

    はくじん

    らず敗戦国の子供のために、泥

    はいせんこく

    ども

    どろ

    だらけになって野菜を作り

    さい

    つく

    を育てている。これはど

    にわとり

    そだ

    ういうことだろう。

  • 「ここの子供をちゃんと育て

    ども

    そだ

    てから、アメリカのサーカス

    に売るんだ。だから、こんな

    に親切なんだぞ。あとでどっ

    しんせつ

    と元をとる気なんだ。」という

    もと

    うわさも立ったが、すぐ立ち消

    えになった。おひたしや汁の実

    しる

    じつ

    になった野菜がわたしたちの

    さい

    口に入るところを、あんなに

    くち

    はい

    うれしそうに眺めているルロ

    なが

    イ先生を、ほんの少しでも

    せんせい

    すこ

    うたが

    っては罰が当たる。みんなが

    ばつ

  • そう思い始めたからである。

    おも

    はじ

    「日本人は先生に対して、ず

    ほんじん

    せんせい

    たい

    いぶんひどいことをしました

    ね。交換船の

    止にしても国

    こうかんせん

    ちゅう

    こく

    際法無視ですし、木づちで指

    さいほう

    ゆび

    をたたき潰すに至っては、も

    つぶ

    いた

    うなんて言っていいか。申し訳

    もう

    わけ

    ありません。」

    ルロイ

    道士はナイフを皿

    しゅうどう

    さら

    の上に置いてから、右の人さ

    うえ

    みぎ

    ひと

    し指をぴんと立てた。指の先

    ゆび

    ゆび

    さき

    は天

    を指してぶるぶる細か

    てんじょう

    こま

  • く震えている。また思い出し

    ふる

    おも

    た。ルロイ

    道士は、「こら。」

    しゅうどう

    とか、「よく聞きなさい。」と

    か言う代わりに、右の人さし指

    みぎ

    ひと

    ゆび

    をぴんと立てるのが癖だった。

    くせ

    「総理大臣のようなことを言

    そう

    だいじん

    ってはいけませんよ。だいた

    い、日本人を代

    してものを

    ほんじん

    だいひょう

    言ったりするのは傲慢です。

    ごうまん

    それに、日本人とかカナダ人

    ほんじん

    じん

    とかアメリカ人といったよう

    じん

    なものがあると信じてはなり

    しん

  • ません。一人一人の人間がい

    ひと

    ひと

    にんげん

    る、それだけのことですから。」

    「わかりました。」

    わたしは右の親指をぴんと

    みぎ

    おやゆび

    立てた。これもルロイ

    道士

    しゅうどう

    の癖で、彼は、「わかった。」「よ

    くせ

    かれ

    し。」「最高だ。」と言う代わり

    さいこう

    に、右の親指をぴんと立てる。

    みぎ

    おやゆび

    そのことも思い出したのだ。

    おも

    「おいしいですね、このオム

    レツは。」

    ルロイ

    道士も右の親指を

    しゅうどう

    みぎ

    おやゆび

  • 立てた。わたしは、はてなと

    こころ

    の中で首をかしげた。おいし

    なか

    くび

    いと言うわりには、ルロイ

    しゅう

    道士に

    欲がない。ラグビー

    どう

    しょくよく

    のボールを押し潰したような

    つぶ

    かっこうのプレーンオムレツ

    は、空気を入れればそのまま

    くう

    グラウンドに持ち出せそうで

    ある。ルロイ

    道士はナイフ

    しゅうどう

    とフォークを動かしているだ

    うご

    けで、オムレツをちっとも口くち

    へ運んではいないのだ。

    はこ

  • 「それよりも、わたしはあな

    たをぶったりはしませんでし

    たか。あなたにひどい仕打ち

    をしませんでしたか、もし、

    していたなら、

    りたい。」

    あやま

    「一度だけ、ぶたれました。」

    いち

  • ルロイ

    道士の、両

    手の人

    しゅうどう

    りょう

    ひと

    さし指をせわしく交差させ、打

    ゆび

    こう

    ちつけている

    姿

    が脳裏に浮か

    すがた

    のう

    ぶ。これは危険信号だった。

    けんしんごう

    この指の動きでルロイ

    道士

    ゆび

    うご

    しゅうどう

    は、「おまえは悪い子だ。」と

    わる

    どなっているのだ。そして次じ

    には、きっと平手打ちが飛ぶ。

    ひら

    ルロイ

    道士の平手打ちは痛

    しゅうどう

    ひら

    いた

    かった。

    「やはりぶちましたか。」

    ルロイ

    道士は悲しそうな

    しゅうどう

    かな

  • になって、ナプキンを折

    ひょうじょう

    り畳む。

    事はもうおしまい

    たた

    しょく

    なのだろうか。

    「でも、わたしたちは、ぶた

    れてあたりまえの、ひどいこ

    とをしでかしたんです。高校

    こうこう

    二年のクリスマスだったと思

    ねん

    おも

    いますが、無断で天使園を抜

    だん

    てん

    えん

    け出して東

    へ行ってしまっ

    とうきょう

    たのです。」

    翌朝、上野へ着いた。有楽

    よくあさ

    うえ

    ゆうらくちょう

    や浅草で映画と実演を見て回

    あさくさ

    えい

    じつえん

    まわ

  • り、夜行列車で仙台に帰った。

    こうれっしゃ

    せんだい

    かえ

    そして待っていたのがルロイ

    道士の平手打ちだった。「あ

    しゅうどう

    ひら

    さっての朝、

    ず戻ります。

    あさ

    かなら

    もど

    心配しないでください。捜さ

    しんぱい

    さが

    ないでください。」という書き

    置きを、園

    室の壁に貼りつ

    えんちょうしつ

    かべ

    けておいたのだが。

    「ルロイ先生は一月

    、わた

    せんせい

    いちがつあいだ

    したちに口をきいてくれませ

    くち

    んでした。平手打ちよりこっ

    ひら

    ちのほうがこたえましたよ。」

  • 「そんなこともありましたね

    え。あのときの東

    見物の費

    とうきょうけんぶつ

    用は、どうやってひねり出し

    よう

    たんです。」

    「それはあのとき白

    しまし

    はくじょう

    たが……。」

    「わたしは忘れてしまいまし

    わす

    た。もう一度教えてくれませ

    いち

    おし

    んか。」

    備に三か月はかかりまし

    じゅん

    さん

    げつ

    た。先生からいただいた

    せんせい

    じゅんもう

    の靴下だの、つなぎの下着だ

    くつした

    した

  • のを着ないでとっておき、駅前

    えきまえ

    の闇市で売り払いました。鶏舎

    やみいち

    はら

    けいしゃ

    から

    を五、六羽持ち出し

    にわとり

    ろく

    て、焼き鳥屋に売ったりもし

    とり

    ました。」

    ルロイ

    道士は

    めて

    しゅうどう

    あらた

    りょう

    手の人さし指を交差させ、せ

    ひと

    ゆび

    こう

    わしく打ちつける。ただしあ

    の頃と違って、顔は笑ってい

    ころ

    ちが

    かお

    わら

    た。

    「先生はどこかお悪いんです

    せんせい

    わる

    か。ちっとも召しあがりませ

  • んね。」

    「少し疲れたのでしょう。こ

    すこ

    つか

    れから仙台の

    道院でゆっく

    せんだい

    しゅうどういん

    り休みます。カナダへたつ頃

    やす

    ころ

    は、前のような大食らいに戻

    まえ

    おお

    もど

    っていますよ。」

    「だったらいいのですが……。」

    「仕事はうまくいっています

    ごと

    か。」

    「まあまあといったところで

    す。」

    「よろしい。」

  • ルロイ

    道士は右の親指を

    しゅうどう

    みぎ

    おやゆび

    立てた。

    た「仕事がうまくいかないとき

    ごと

    は、この言葉を思い出してく

    こと

    おも

    ださい。『困難は分割せよ。』

    こんなん

    ぶんかつ

    あせってはなりません。問題

    もんだい

    を細かく割って、一つ一つ地道

    こま

    ひと

    ひと

    みち

    に片づけていくのです。ルロ

    かた

    イのこの言葉を忘れないでく

    こと

    わす

    ださい。」

    談じゃないぞ、と思った。

    じょうだん

    おも

    これでは、遺言を聞くために会

    ゆいごん

  • ったようなものではないか。

    そういえば、さっきの握手も

    あくしゅ

    なんだか変だった。「それは実

    へん

    じつ

    に穏やかな握手だった。ルロ

    おだ

    あくしゅ

    道士は

    人の手でも握

    しゅうどう

    びょうにん

    にぎ

    るようにそっと握手をした。」

    あくしゅ

    というように感じたが、実は

    かん

    じつ

    ルロイ

    道士が

    人なので

    しゅうどう

    びょうにん

    はないか。元園

    は何かの

    もとえんちょう

    なに

    やまい

    にかかり、この世のいとまご

    いに、こうやって、かつての

    園児を訪ねて歩いているので

    えん

    たず

    ある

  • はないか。

    「日本でお暮らしになってい

    ほん

    て、楽しかったことがあった

    たの

    とすれば、それはどんなこと

    でしたか。」

    先生は重い

    気にかかって

    せんせい

    おも

    びょう

    いるのでしょう、そして、こ

    れはお別れの儀式なのですね

    わか

    しき

    ときこうとしたが、さすがに

    それははばかられ、結

    は、

    けっきょく

    平凡な質問をしてしまった。

    へいぼん

    しつもん

    「それはもう、こうやってい

  • るときに決まっています。天

    てん

    使園で育った子供が世の中へ

    えん

    そだ

    ども

    なか

    出て、一人前の

    きをしてい

    いちにんまえ

    はたら

    るのを見るときがいっとう楽

    たの

    しい。何よりもうれしい。そ

    なに

    うそう、あなたは上川君を知

    かみかわくん

    っていますね。上川一雄君で

    かみかわかず

    くん

    すよ。」

    もちろん知っている。ある春

    はる

    の朝、天使園の正門の前に捨

    あさ

    てん

    えん

    せいもん

    まえ

    てられていた子だ。捨て子は春

    はる

    になるとぐんと増える。陽気

    よう

  • がいいから、発見されるまで長

    はっけん

    なが

    くかかっても風邪を引くこと

    はあるまいという、母親たち

    ははおや

    の最後の愛

    が春を選ばせる

    さい

    あいじょう

    はる

    えら

    のだ。捨て子はたいてい姓名

    せいめい

    がわからない。そこで、

    ちゅうがく

    生、高校生が知恵を絞って姓名

    せい

    こうこうせい

    しぼ

    せいめい

    をつける。だから、忘れるわ

    わす

    けはないのである。

    「あの子は今、市営バスの運

    いま

    えい

    うん

    転手をしています。それも、

    てんしゅ

    天使園の前を通っている路線

    てん

    えん

    まえ

    とお

    せん

  • の運転手なのです。そこで、月

    うんてんしゅ

    つき

    に一度か二度、駅から上川君

    いち

    えき

    かみかわくん

    の運転するバスに乗り合わせ

    うんてん

    ることがあるのですが、その

    ときは楽しいですよ。まずわ

    たの

    たしが乗りますと、こんな合図

    あい

    をするんです。」

    ルロイ

    道士は右の親指を

    しゅうどう

    みぎ

    おやゆび

    ぴんと立てた。

    「わたしの癖をからかってい

    くせ

    るんですね。そうして、わた

    しに運転の腕前を見てもらい

    うんてん

    うでまえ

  • たいのでしょうか、バスをぶ

    んぶん飛ばします。最後に、

    さい

    バスを天使園の正門前に止め

    てん

    えん

    せいもんまえ

    ます。停

    所じゃないのに止

    ていりゅうじょ

    めてしまうんです。上川君は

    かみかわくん

    いけない運転手です。けれど

    うんてんしゅ

    も、そういうときがわたしに

    はいっとう楽しいのですね。」

    たの

    「いっとう悲しいときは…

    かな

    …?」

    「天使園で育った子が世の中

    てん

    えん

    そだ

    なか

    に出て結婚しますね。子供が生

    けっこん

    ども

  • まれます。ところがそのうち

    に、夫婦の

    がうまくいかな

    ふう

    あいだ

    くなる。別居します。離婚し

    べっきょ

    こん

    ます。やがて子供が重荷にな

    ども

    おも

    る。そこで、天使園で育った子

    てん

    えん

    そだ

    が、自分の子を、またもや天

    ぶん

    てん

    使園へ預けるために長い坂を

    えん

    あず

    なが

    さか

    とぼとぼ上ってやって来る。

    のぼ

    それを見るときがいっとう悲

    かな

    しいですね。なにも、父子二代

    だい

    で天使園に入ることはないん

    てん

    えん

    はい

    です。」

  • ルロイ

    道士は壁の時計を

    しゅうどう

    かべ

    けい

    見上げて、

    「汽車が待っています。」

    しゃ

    と言い、右の人さし指に中指

    みぎ

    ひと

    ゆび

    なかゆび

    をからめて掲げた。これは

    かか

    「幸運を祈る」「しっかりおや

    こううん

    いの

    り」という意味の、ルロイ

    しゅう

    道士の指言葉だった。

    どう

    ゆびこと

  • 上野駅の

    央改札口の前

    うえ

    えき

    ちゅう

    おう

    かい

    さつ

    ぐち

    まえ

    で、思い切ってきいた。

    おも

    「ルロイ先生、死ぬのは怖く

    せんせい

    こわ

    ありませんか。わたしは怖く

    こわ

    てしかたがありませんが。」

  • かつて、わたしたちがいた

    ずらを見つかったときにした

    ように、ルロイ

    道士は少し

    しゅうどう

    すこ

    赤くなって

    をかいた。

    あか

    あたま

    「天国へ行くのですから、そ

    てんごく

    う怖くはありませんよ。」

    こわ

    「天国か。本当に天国があり

    てんごく

    ほんとう

    てんごく

    ますか。」

    「あると信じるほうが楽しい

    しん

    たの

    でしょうが。死ねば、何もな

    なに

    いただむやみに寂しいところ

    さび

    へ行くと思うよりも、にぎや

    おも

  • かな天国へ行くと思うほうが

    てんごく

    おも

    よほど楽しい。そのために、

    たの

    この何十年

    、神様を信じて

    なに

    ねんあいだ

    かみさま

    しん

    きたのです。」

    わかりましたと答える代わ

    こた

    りに、わたしは右の親指を立

    みぎ

    おやゆび

    て、それからルロイ

    道士の

    しゅうどう

    手をとって、しっかりと握っ

    にぎ

    た。それでも足りずに、腕を

    うで

    下に激しく振った。

    じょう

    はげ

    「痛いですよ。」

    いたル

    ロイ

    道士は顔をしかめ

    しゅうどう

    かお

  • てみせた。

    上野公園の葉

    が終わる

    うえ

    こう

    えん

    ざくら

    頃、ルロイ

    道士は仙台の

    ころ

    しゅう

    どう

    せん

    だい

    道院でなくなった。まもな

    しゅうどういん

    く一

    忌である。わたしたち

    いちしゅう

    に会って回っていた頃のルロ

    まわ

    ころ

    道士は、身体

    が悪い

    しゅうどう

    から

    じゅう

    わる

    腫瘍の巣になっていたそうだ。

    しゅよう

    葬式でそのことを聞いたとき、

    そうしき

    わたしは知らぬ

    に、

    あいだ

    りょう

    の人さし指を交差させ、せわ

    ひと

    ゆび

    こう

    しく打ちつけていた。