浦 田 早 苗repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/38451/rhg018-1...生まれる。1685 年6...

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1 ジャコバイト辞典(6) M MacLean, Hector, Sir, 5 th Baronet of Duart (1703-1750) 5 デュアルテ男爵、ヘクターマックリーン 父の第 4 代デュアルテ男爵が 1715 年のジャコバイト の乱にジャコバイト側で参戦し 1716 年に死亡すると、 父の後を継いでマックリーン氏族長となる。1721 年か らフランスで育ち、学業を修め、 1726 年からは亡命ジャ コバイトのエージェントとしてフランスとの折衝にあ たる。1745 年の乱では蜂起直前に逮捕されロンドン塔 に収監されるが、フランス国籍ということで 1747 に釈放された。 MacLeod, Norman (1705-1772) ノーマンマクラウド スコットランド・ローランドのマクラウド氏族長。 1745 年のジャコバイトの乱に際しては、政府側につき 700 名の氏族を率いて 1745 12 23 日のインベルー リ(Inverurie -アバディーン北西 12 マイル)の戦いに 参戦したが、70 名の死傷者を出しジャコバイト軍に敗 北した。カロデンの戦いには参戦しなかった。

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  • 一〇〇

    1

    ジャコバイト辞典(6)

    浦 田 早 苗

    M

     MacLean, Hector, Sir, 5th Baronet of Duart (1703-1750) ― 第 5代

    デュアルテ男爵、ヘクター・マックリーン

    父の第 4代デュアルテ男爵が 1715年のジャコバイト

    の乱にジャコバイト側で参戦し 1716年に死亡すると、

    父の後を継いでマックリーン氏族長となる。1721年か

    らフランスで育ち、学業を修め、1726年からは亡命ジャ

    コバイトのエージェントとしてフランスとの折衝にあ

    たる。1745年の乱では蜂起直前に逮捕されロンドン塔

    に収監されるが、フランス国籍ということで 1747年

    に釈放された。

     MacLeod, Norman (1705-1772) ― ノーマン・マクラウド

    スコットランド・ローランドのマクラウド氏族長。

    1745年のジャコバイトの乱に際しては、政府側につき

    700名の氏族を率いて 1745年 12月 23日のインベルー

    リ(Inverurie -アバディーン北西 12マイル)の戦いに

    参戦したが、70名の死傷者を出しジャコバイト軍に敗

    北した。カロデンの戦いには参戦しなかった。

  • 九九

    2 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     MacPherson, Ewan, of Cluny (1706-1764) ― イワン・マクファーソン

    スコットランド、マクファーソン氏族長で、もともと

    政府軍側であったが、1745年の乱ではジャコバイト側

    で参戦した。プレストンパンズ、クリフトン、ファル

    カークの戦いに 300名の氏族を率いて大佐として戦い

    勇名を馳せた。カロデンの戦いには加わらず、その後

    はチャールズ・スチュアートの亡命宮廷に仕えた。

     Manchester Regiment ― マンチェスター連隊

    1745年の乱でジャコバイト軍が 11月 28日に入城した

    マンチェスターで新兵公募を行い、組織された 300名

    の連隊。Francis Towneley 大佐が率いダービーまで進軍

    したが、ジャコバイト軍のスコットランド撤退の際に、

    カーライルでの篭城を命じられ、後に 127名が捕虜と

    なり、15畳ほどの地下牢に水も食料も与えられずに一

    週間押し込められた後処刑された。

     Mar, 6th Earl of, John Erskine (1675-1732) ― 第 6代マー伯爵、ジョ

    ン・アースキン

    1689年父から伯爵位を継承したスコットランド貴族。

    イングランド・スコットランド連合後、スコットラ

    ンド代表貴族としてウエストミンスタに入り官職を得

    る。ジョージ 1世に忠誠を誓うが、トーリであったた

    め官職を剥奪されると 1715年のジャコバイトの乱の

    際、蜂起した。1715年の乱後は、ジェームズ・エドワー

    ドの亡命宮廷に仕えた。

  • 九八

    3ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Maria Theresia von Österreich (1717-1780) ― マリア・テレジア

    カール 6世の長女。兄が夭折したため、ハプスブルク

    家を相続した。帝位には夫のロートリンゲン公フラン

    ツが就いたが、マリア・テレジアはハプスブルク家当

    主の象徴であるオーストリア大公となる。1780年に死

    亡するまでに 5男 11女をもうけ子供たちの結婚を外

    交に利用した。フランス革命で断頭刑に処せられたマ

    リー・アントワネットの母でもある。

     Marie-Victore, Princess de Rohan (1779-1836) ― マリー・ヴィクト

    ワール

    チャールズ・エドワードとグラスゴーのジャコバイト、

    クレメンティーナ・ウォーキンショーとのあいだの私

    生児シャルロッテの娘。チャールズ・エドワードの孫

    にあたるが、その存在は長い間隠されていた。成長す

    ると、彼女は中世のブルターニュ公爵にまでさかのぼ

    るフランスの名門貴族ローハン家に嫁ぎ 3人の子供を

    もうけた。

     Mary of Modena, Mary Beatrice (1658-1718) ― メアリ・ベアトリス

    1673年にヨーク公ジェームズと結婚したイタリア・モ

    デナ公女。1682年までに 1男 3女をもうけたが、すべ

    て夭折していた。1685年にジェームズが即位すると、

    ジェームズ 2世妃となる。1688年にフランス亡命後は、

    サンジェルマン・アン・レイ城を居城とし、1692年に

    ジェームズ 2世の末子ルイサ・マリア・テレサを出産

    した。

  • 九七

    4 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Mary II of England (1662-1694) ― メアリ 2世

    ヨーク公の長女であったが、母アンの強い希望から、

    時の国王チャールズ 2世の命によってプロテスタント

    として育てられた。15歳でネーデルラント総督ウィレ

    ムと結婚するが、三度の妊娠も流産または死産に終わ

    り、生涯に渡り子供を持てなかった。1689年からメア

    リ 2世としてウィリアムと共に英国を統治し、戦場を

    駆け巡っていたウィリアム 3世以上に政治に関与した

    が、1694年天然痘のため崩御した。

     Massacre of Glencoe (1692) ― グレンコーの虐殺

    ウィリアム 3世によるスコットランド・

    ジャコバイト一掃を目的とした、グレン

    コーのマクドナルド氏族への虐殺。族長以

    下 38名が殺害され、子供を含む 40名が焼

    き殺された。背景には氏族間の対立も含ま

    れていたが、国内外で問題視され、ウィリ

    アムの人気を著しく貶めた。

     Maxwell, William, 5th Earl of Nithsdale (1676-1744) ― 第 5代ニス

    デール伯爵、ウィリアム・マクスウェル

    スコットランド貴族でカトリックのジャコバイト。

    1715年の乱ではトマス・フォスター軍に加わり、プレ

    ストンの戦いで捕らわれ、反逆罪により死刑判決を受

    けた。しかし、妻ウィニフレッドの助けにより処刑前

    夜にロンドン塔牢獄を脱獄し、ローマに逃亡後亡命ス

    チュアート宮廷に仕え、妻と幸せな余生を送った。

  • 九六

    5ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Maxwell, Winifred, Countess of Nithsdale (1680-1749) ― ニスデー

    ル伯爵夫人、ウィニフレッド・マクスウェル

    初代ポーウィス侯爵の娘で第 5代ニスデール伯爵夫人。

    1715年のジャコバイトの乱に参戦し捕まった夫の処刑

    免除をジョージ 1世に嘆願したが、適わないとわかる

    と処刑前夜に夫を自分のメイドに変装させロンドン塔

    から脱獄させた。晩年は、ローマでチャールズ・エド

    ワードの愛人クレメンティーナに仕えた。

     Middleton, Charles, 2nd Earl of Middleton (1650-1719) ― 第 2代ミ

    ドルトン伯爵、チャールズ・ミドルトン

    1688年の革命勃発当時のイギリスの国務大臣で、1693

    年以降ジャコバイト主席補佐官としてジェームズ 2世、

    ジェームズの死後はジェームズ・エドワードに仕える。

    1708年のジャコバイト・クーデターの首謀者でもあり、

    1715年の乱でも準備段階で多大な助力をした。フラン

    ス政府から年金を受け、1719年に死亡した。

     Moir, James, 4th Laird of Stoneywood (1710-1782) ― 第 4代ストー

    ニーウッド領主、ジェームズ・モア

    アバディーンシャーの地主。300名の騎兵を率いて

    1745年の乱全般で活躍した。歩兵が主のジャコバイ

    ト軍にあって、彼の率いる竜騎兵はカロデンの敗北で

    のハイランダーの逃避路をつくった。その後亡命先の

    ストックホルムで商人として成功し、恩赦を受けると

    1762年にストーニーウッドに帰郷し、余生を全うした。

  • 九五

    6 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Monmouth, 1st Duke of, James Scott (1649-1685) ― 初代モンマス公

    爵、ジェームズ・スコット

    チャールズ 2世と愛妾ルーシー・ウォルターとの間に

    生まれる。1685年 6月、カトリックであったジェーム

    ズ 2世の即位に異を唱え、自らのプロテスタントによ

    る王位継承を掲げ、イングランド南西部で蜂起する。

    反乱は 1ヵ月足らずの内にジョン・チャーチルによっ

    て平定され、命乞い空しくモンマス公はロンドン塔で

    断頭刑に処せられた。

     Murray, Alexander (1712-1778) ― アレクサンダー・マリ

    エリバンク卿の弟で、1747年に蜂起を画策したジャコ

    バイト。ジョージ 2世を誘拐し、その混乱のなかプロ

    イセン陸軍の元帥となっていたジャコバイト、ジェー

    ムズ・エドワード・キース率いる反乱軍がスウェーデ

    ンからの援軍を加えスコットランドで蜂起するという、

    いわゆるエリバンク陰謀を提唱した。しかし、キース

    の兄マリシャル伯爵は、この時すでにチャールズ・エ

    ドワードを見限っていたため計画は未遂に終わった。

     Murray, Lord George (1694-1760) ― ジョージ・マリ卿

    スコットランド有力貴族アソル公爵の六男でジャコバ

    イト。1715年の乱の後、国外追放とされるが、1739

    年にジョージ 2 世に忠誠を誓い、許され帰国する。

    1745年、再び翻意しチャールズ・エドワード軍に加わ

    り中将を任命され、軍の実質的指揮官となる。ダービー

    進撃後、冬を前に一時的にスコットランドに退避する

    ことを提案した人物。また平坦なカロデンを決戦場に

    することに強く反対した指揮官でもあった。

  • 九四

    7ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Murray, James, Earl of Dunbar (1690-1770) ― ダンバー伯爵、ジェー

    ムズ・マリ

    第 5 代ストルモント子爵の次男で、1719 年以降亡

    命ジャコバイト宮廷に仕えたスコットランド貴族。

    ジェームズ・エドワードとクレメンティーナ・ソビエ

    スカとの婚儀を調えた人物として知られる。1746年に

    フランスに舞い戻ったチャールズ・エドワードの機嫌

    を損ね解任。その後アビニョンに移り晩年を過ごした。

     Murray, John, of Broughton (1718-1777) ― ジョン・マリ

    サー・デビッド・マリの息子のジャコバイト。

    1739年頃からチャールズ・エドワードとスコット

    ランド・ジャコバイトの連絡役を務め、フランス

    からの援助も取り付けた。45年の乱ではチャール

    ズの秘書官に任じられたが、捕らわれるとジャコ

    バイトを裏切り、ロヴァット(Lovat)卿が彼の証言

    により処刑された。

     Murray, William, Marquess of Tullibardine (1689-1746) ― トリバル

    ディン侯爵、ウィリアム・マリ

    初代アソル公爵の次男のジャコバイト。1715年の乱で

    はマー伯爵と、1719年の乱ではマリシャル伯爵と共に

    戦った。1745年の乱ではチャールズ・エドワードと共

    にスコットランドに上陸した 7名の従者の一人。ジャ

    コバイト侯爵位を授与されたが、1746年のカロデンの

    戦いで捕われ、反逆罪によりロンドン塔で処刑された。

  • 九三

    8 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Muti Palazzo ― ムッティ宮

    ローマ、Santi Apostoli 広場に面した館。ローマ教皇

    クレメント 11世がジェームズ・エドワード・スチュ

    アートとクレメンティーナ・ソビエスカに与え、ジャ

    コバイトの亡命宮廷となった。チャールズ・エドワー

    ドとヘンリ・ベネディクトがこの館で誕生し、ジェー

    ムズとチャールズが亡くなった館でもある。

    William Hogarth 画 「March of the Guards to Finchley」 1745年のジャコバイトの乱に際し、ロンドンの守備に向かう英国連隊の軍紀の乱れを風刺している

  • 九二

    9ジャコバイト辞典(6)(浦田)

    N

     Nairn ― ネアン

    カロデンの戦いに備えてカンバーランド

    軍が陣を張った町。戦い前夜、ジャコバ

    イト全軍の兵によるネアンへの夜襲が計

    画されたが、急仕立てのこの作戦では、

    この地に疎い案内役と夜間行軍の経験の

    ないフランス正規軍が足手まといになり

    進軍は鈍かった。空が白み始めたとき、

    ジャコバイト軍は未だ敵陣 3km 手前の地

    点にあり、司令官マリ卿はやむなく全軍

    を引き返さざるを得なかった。

     Nairne, 3rd Lord, John Murray (1691-1770) ― 第 3代ネアン卿、ジョ

    ン・マリ

    アソル侯爵の孫のジャコバイト。1715年のジャコバイ

    トの乱に参戦し、プレストンの戦いで捕らわれ反逆罪

    による死刑判決を受けたが、その後恩赦により爵位没

    収の上で釈放された。1745年のジャコバイトの乱の際

    も蜂起したが、カロデンの戦い敗北後スウェーデンに

    亡命した。晩年は気難しい性格になり、チャールズ・

    エドワードと仲たがいした。

  • 九一

    10 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Newcastle-upon-Tyne, 1st Duke of, Thomas Pelham-Holles (1693-

    1768) ― 初代ニューカッスル公爵、トマス・ぺラム - ホールズ

    ウィッグの政治家。ケンブリッジ大学クレア・カレッ

    ジで学び、ウォルポールの盟友でヘンリ・ペラムの兄。

    要職を歴任し、英仏 7年戦争勃発時の首相でもあった。

    1718年にジョン・チャーチルの孫レディ・ヘンリエッ

    タ・ゴドルフィンと結婚するが、彼女の健康が優れず、

    子供はできなかった。1754年から 62年までの英国の

    政務を担う。

     Norris, John (1671-1749) ― ジョン・ノリス

    1708 年から下院議員を兼任した海軍提督で、スペイン

    継承戦争に従事し、ジョージ 1世にも仕えた。北方戦

    争におけるバルト海艦隊司令官であったが、英仏海峡

    守備艦隊も指揮し、1716年のスコットランド進入計画

    などの多くのジャコバイトのクーデターや反乱に対処

    し英国を守備した。1734年から英国海軍司令長官を務

    めた。

     North, William, 6th Baron North (1678-1734) ― 第 6代ノース男爵、

    ウィリアム・ノース

    名うてのジャコバイト議員。議会でジャコバイトより

    の過激な発言をくり返していた。アタベリ陰謀事件

    (1722年に予定されていたジャコバイト蜂起計画)では

    アタベリと共に反乱軍を率いる予定であった。陰謀発

    覚後、国外追放に処せられるとジェームズ・エドワー

    ドの亡命宮廷に仕えジャコバイト伯爵に叙爵される。

  • 九〇

    11ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Nottingham, 2nd Earl of, Daniel Finch (1647-1730) ― 第2代ノッティ

    ンガム伯爵、ダニエル・フィンチ

    1673年から下院議員でチャールズ 2世の下で海軍大臣

    を務めたが、ジェームズ 2世に冷遇され、ウィリアム

    側につく。ウィッグと一線を画す厳格なトーリ議員と

    して名を馳せる。ウィリアム 3世、アン女王の下で国

    務長官を歴任し、1682年に伯爵位を受ける。ジョージ

    1世の即位によって枢密院議長に就任するが、1716年

    政界から引退した。

    カロデンの決戦場跡

  • 八九

    12 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

    O

     O’Brien, Charles, 5th Viscount Clare (1673-1706) ― 第 5代クレア子

    爵、チャールズ・オブライアン

    1688年の革命後、アイルランドでの反革命戦争(1688-

    1691年)をジャコバイト軍竜騎兵連隊大佐として戦い

    抜いた貴族。チャールズ 2世、ジェームズ 2世の侍

    従長を務めたヘンリ・バークリーの娘シャルロッテに

    ジェームズの亡命宮廷で出会い結婚して 2人の息子を

    もうけた。フランス亡命後はフランス軍に身を投じた。

     O’Brien, Charles, 6th Viscount Clare (1699-1761) ― 第 6代クレア子

    爵、チャールズ・オブライアン

    第 5代クレア子爵の息子で、フランス軍人。父の竜騎

    兵連隊をフランス軍大佐として指揮し、1718年スペイ

    ンと戦う。その後ポーランド継承戦争では 1734年の

    フィリプスバークの攻城戦、オーストリア継承戦争で

    は、1743年のデティンゲンの戦い 1745年のフォント

    ノイの戦いで功績を挙げ、1751年フランス陸軍元帥ま

    で上り詰めた。

  • 八八

    13ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     O’Sullivan, John William (1700-1760) ― ジョン・ウィリアム・オサリ

    バン

    1745年の乱最大の決戦の地を、両軍の間にある

    カロデン・ムアに定めたチャールズの副官。オ

    サリバンはもともと軍の主計畑一筋で、戦闘経験

    のほとんどないアイルランド人であった。チャー

    ルズ軍の実質的指揮官マリ卿が後に、「 湿地帯カ

    ロデンほどハイランダーにとって戦いにくい地

    はなかったであろう 」 と述壊している。

     Ogilvy, David, 5th Earl of Airlie (1725-1803) ― 第 5代エリー伯爵、

    ディヴィド・オグルビー

    1745年の乱でチャールズ・エドワードの側近として

    参戦したスコットランド貴族。カロデンの戦いで捕ら

    われたが、フランスの国籍を有していることを理由に

    釈放され、その後フランス軍に投じ、オグルビー連隊

    の活躍から 「 麗しのスコットランド人 」 と呼ばれた。

    1778年に恩赦を受けスコットランドに帰国し、余生を

    送った。

     Ogilvy, Lady Margaret (1724-1757) ― レディ・マーガレット・オグル

    ビー

    第5代エリー伯爵の妻。1745年の乱では夫と共にチャー

    ルズ・エドワード軍に従軍し、カロデンの戦い後捕ら

    われ反逆罪により死刑判決を受けた。エディンバラ城

    収監中に洗濯女に変装して牢獄から脱獄し、フランス

    に渡る。1751年に出産のため一時スコットランドに帰

    国後、フランスに戻り 33歳の短い人生を終えた。

  • 八七

    14 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Oliphant, Laurence, elder (1691-1767) ― ローレンス・オリファント

    スコットランド、ガスク(Gask)の大地主のジャコバイ

    トで 1715年の乱、また息子と共に 45年の乱に参戦し

    た。1745年 9月 11日チャールズ・エドワードが彼の

    館で朝食をとり、記念にひと房の髪をおいていった。

    カロデンの戦い後はフランスに亡命したが、後に恩赦

    を受けてスコットランドに帰郷し、余生をそこで過ご

    した。

     Oliphant, Laurence, younger (1724-1792) ― ローレンス・オリファント

    スコットランド中央部に位置するガスク村の大地主

    で、1732年に父から家督を継いだジャコバイト。1745

    年の乱では父と共に、ファルカークの戦い、カロデン

    の戦いに参戦した。カロデンの戦いの敗北後 1746年

    10月にスウェーデンに亡命したが、1763年に恩赦を

    受けスコットランドに帰郷する。

     Ormonde, 2nd Duke of, James Butler (1665-1745) ― 第 2代オーモン

    ド公爵、ジェームズ・バトラー

    1688年祖父から公爵位を継いだアイルランド軍人で、

    1711年スペイン継承戦争英国陸軍総司令官となる。

    1715年の乱ではイングランド西部で蜂起する予定で

    あったが、逮捕状に恐れをなして、蜂起直前にフラン

    スに亡命した。その後、スペインの庇護下で亡命生活

    を送り、1719年の乱にジャコバイト側指揮官として参

    加した。

  • 八六

    15ジャコバイト辞典(6)(浦田)

    P

     Peace of Ryswick (1697) ― ライスワイクの講和

    ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、フラン

    スとドイツ (神聖ローマ帝国、ドイツ諸侯

    国)、イギリス、オランダ、スペイン、サ

    ヴォイアとの間のアウグスブルク同盟戦争

    (1688-97年)終結の講和。これによりフラン

    スはウィリアム 3世を正式な英国国王とし

    て認め、以後亡命中のジェームズ 2世を援

    助しないことが約束された。

     Pelham, Henry (1694-1754) ― ヘンリ・ぺラム

    ニューカッスル公爵の弟。1715年のジャコバイトの

    乱には政府軍志願兵としてプレストンの戦いに従軍

    し、1717年から下院議員でウィッグの一人として活躍。

    1724-30年陸軍大臣、1730-43年陸軍主計長官を務めた。

    ウォルポールの退陣後は、1743年から亡くなる 1754

    年まで首相としての役割を果たした。政治手腕の評価

    は兄より高い。

  • 八五

    16 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Perth, Dukes of ― パース公爵位

    第 4代パース伯爵、ジェームズ・ドラモンに与爵され

    たジャコバイト公爵位。1696年からジェームズ 2世の

    亡命宮廷に仕え、1701年に公爵に叙された。ドラモン

    の領地は 1750-1784年まで英国政府に没収されたが、

    1784年に子孫のジェームズ・ドラモン大尉に返され、

    彼は同時にメルフォート伯爵に叙された。

     Pitsligo, 4th Lord Forbes, Alexander Forbes (1678-1762) ― 第 4代

    ピッツライゴ・フォーブス卿、アレクサンダー・フォーブス

    1715年のジャコバイトの乱でスコットランドのブレー

    マーで蜂起したマー伯爵の孫のジャコバイト。1715年

    の乱に参戦後一時ローマに亡命するが 1720年に恩赦

    を受けスコットランドに帰国。1745年の乱にも 67歳

    の高齢にもかかわらず 100名の兵を率い参戦した。

     Pitt, William, 1st Earl of Chatham (1708-1778) ― 初代チャタム伯爵、

    ウィリアム・ピット

    大英帝国の礎をつくるウィリアム・ピットの父。1735

    年、下院議員となる。ウィッグと一線を画し政府のハ

    ノーヴァ寄りの政策を常に批判し、ウォルポールの論

    敵でもあった。1746年陸軍主計長官に任じられると

    ジャコバイトの乱の後処理に手腕を発揮し、ジョージ

    2世、3世下で 1756-61年国務大臣、1766-68年首相を

    務める。1766年にチャタム伯に叙された。

  • 八四

    17ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Pompadour, Madame (1721-1764) ― ポンパドゥール夫人

    本名、ジャンヌ・アントワネット・ポワソン。父はオルレアン侯爵(幼少

    のルイ 15世の摂政)の会計士。1741年に結婚するが、1744年にその美貌

    がルイ 15世の目に留まり、彼女はポンパドゥール侯爵夫人の称号を与え

    られて夫と別居し、1745年 9月 14日正式に公妾として認められた。ポン

    パドゥール夫人は、カロデンの戦い後半年もの逃避行を続け 1746年 9月

    にフランスに舞い戻り当時の英雄ともて囃されたチャールズ・エドワード

    をフランス宮廷に招待し、ルイ 15世とともに晩餐会でもてなした。しかし、

    チャールズはフランス国王妃が彼の母の従姉妹であっ

    たこともあり、彼女の出自の低さにポンパドゥール夫

    人に対する軽蔑の念を隠そうとせず、彼女はこの日の

    屈辱を決して忘れなかった。チャールズは彼女が持つ

    政治、外国に対する影響力を見損ねており、以後ジャ

    コバイトにフランスが援助する事が無くなったのであ

    る。

     Portland, 1st Earl of, William Bentinck (1649-1709) ― 初代ポートラ

    ンド伯爵、ウィリアム・ベンティック

    ウィリアム 3世の寵愛をうけた貴族で、1688年のウィ

    リアムの英国侵攻の準備を調えた人物。革命後、ウィ

    リアムによってイングランド伯爵に叙爵される。王室

    御寝所長官を務め、ボイン川戦やランデンの戦いに参

    戦した軍人でもあった。ネーデルラントの国益を第一

    に考え、しばしば英国人の大臣と対立した。ネーデル

    ラント人のアルベマール卿(Lord Albemarle)の台頭を

    妬み、1699年に引退する。

  • 八三

    18 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Preston, Battle of, 14 November 1715 ― プレストンの戦い

    1715年のジャコバイトの乱は、イングランド北部のトマス・フォスター

    と南西部オーモンド公爵及びスコットランドのマー伯爵の協同作戦であっ

    た。しかし、1715年 10月 6日ワークウォースで挙兵したフォスターはス

    コットランドのケルソーでマー伯軍を一旦待ったが、このときすでにオー

    モンド公爵はフランスに亡命していたことを知らず、イングランド南西部

    の蜂起を期待し無謀にも単独で軍を南下さ

    せてしまう。フォスターは 11月 12日ラン

    カシャーのプレストンで単独で政府軍と一

    戦を交えてしまった。死傷者は政府軍 76

    に対しフォスター軍 42と少数であったが、

    駆けつけた政府カーペンター軍に包囲され

    ると、勝機を逸したと判断したフォスター

    は 1500名の兵とともに 11月 14日に投降

    した。これにより 1715年の乱は失敗に終

    わるのである。

     Preston, Viscount, Richard Graham (1648-1695) ― プレストン子爵、

    リチャード・グラハム

    1675年から下院議員となり、1682 年から外交官とし

    ても活躍し、1688年には国務大臣となる。プロテスタ

    ントであったがジェームズ 2世を支持し、アイルラン

    ドに上陸したジェームズ軍への援軍を計画したジャコ

    バイト。1689年に逮捕され死刑の判決を受けるが、共

    犯者と計画を密告したことによって特赦された。海軍

    司令官ダートマス卿は、彼の供述により 1691年にロ

    ンドン塔で獄死した。

  • 八二

    19ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Prestonpans, Battle of, 21 September 1745 ― プレストンパン

    ズの戦い

    1745年 7月 25日スコットランド・ハイランドに上陸したチャールズ・エ

    ドワードがハイランドの族長に挙兵を願う手紙を送った結果、キャメロン

    氏族、ケポック氏族などからなる 1200名のハイランダーが 8月 19日シー

    ル湖畔グレンフィナンでチャールズ軍の旗挙げに集まった。彼らは政府軍

    駐留のフォート・ウィリアム、フォート・オーガスタスを迂回し、ハイ

    ランド一揆鎮圧を目的に築かれたコリィヤ

    リック峠道を逆上り、パース、スターリン

    グを通りその間に軍勢を増加させ、9月 17

    日無血のうちにエディンバラ入城を果たし

    た。チャールズ軍の勢いは止まらず、9月

    21日エディンバラ近郊プレストンパンズで

    スコットランド守備軍総司令官コープ将軍

    率いる政府軍を壊滅させ、スコットランド

    に橋頭堡を築いた。

    右図はプレストンパンズにおける当

    時の戦いを表したもの。チャールズ

    軍は狭い水路を利用して政府軍の背

    後に回り込む奇襲戦法をとった。

    黒:チャールズ軍

    グレー:政府軍

  • 八一

    20 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Putteney, William, 1st Earl of Bath (1684-1764) ― 初代バース伯爵、

    ウィリアム・パルトニ

    1705年から下院議員。若手ウィッグの論客として台

    頭し、一時ウォルポール派に身を置くが、ウィッグの

    和解後、重要な官職に就くことができなかったことを

    恨み、トーリと結託しウォルポールの論敵となった。

    1742年バース伯に叙され、ウォルポールと同時期に下

    院を退いた。1746年に組閣を求められたが、わずか 2

    日で断念した。

     PyotrⅠ Alekseevich (1671-1725) ― ピョートル大帝

    10歳でロシア皇帝の座に就く。1696年に海軍を創設し、

    1700年からスウェーデンとの間でバルト海の覇権を巡

    る北方戦争を開始、1721年ニスタット条約を締結し勝

    利する。ロシアの西欧化改革を推進した。ジェームズ・

    エドワードに理解を寄せ援助を約していたが、1725年

    に泌尿器系感染症から壊疽を併発し死去し、その約束

    は果たされなかった。

    ジャコバイト兵の帽子に飾られた白バラ。右はロ

    サ・アルバ (Rosa Alba) で Jacobite Rose、Bonnie Prince Charlie's Rose の別名を持つ。バラ戦争で戦ったヨーク家の白バラともいわれている。

  • 八〇

    21ジャコバイト辞典(6)(浦田)

    Q

     Queen’s Chapel of Saint James ― クィーンズ・チャペル

    ロンドン、セント・ジェームズ宮に付属し

    たローマン・カトリック教会。1625 年に

    チャールズ 2 世のカトリックの王妃、ヘ

    ンリエッタ・マリアのために建てられた。

    1688年 10月 15日ジェームズ 2世の息子、

    ジェームズ・フランシス・エドワードの洗

    礼がここで執り行われた。

     Queen, Jacobite ― ジャコバイト女王号

    1949年に製造された 159人乗りの遊覧船。も

    とはタイン(Tyne)川の渡しのフェリーであった

    が、現在ではインヴァネスから出発し、ネス湖、

    アーカイト城をめぐり Tomnahurich Bridge で下

    船し、バスでインヴァネスに戻るツアーに使用

    されている。

  • 七九

    22 ジャコバイト辞典(6)(浦田)

     Queen, God Save the (King) (1745) ― 神よ我らが女王(国王)

    を救いたまえ

    1745年 9月ロンドンのドルリー・レーン劇場において演奏され、後に英

    国国歌となった曲。同年 7月にスコットランドで挙兵したジャコバイト軍

    が、エディンバラ近郊のプレストンパンズにおいて、コープ将軍率いる政

    府軍を打ち破った直後のことである。この曲の編曲者はトーマス・アーネ

    (Thomas Augustine Arne,1710-1778)とされているが、基となった曲はジャ

    コバイトの側のものであったとの説もあり、実際 1745年にジャコバイト

    軍が南下するなか、この 'God Save The King(Queen)' はジャコバイトにも

    歌い継がれていった。この歌の歌詞には最終の第 6節まで固有名詞はでて

    こない。第 6節に初めて 「ウェード将軍が反逆せしスコットランド人を打

    ち破る 」 という言葉があるが、1745年 10月発行のジェントルメンズ・マ

    ガジンにはこの歌詞はなかった。また同時期ジャコバイトにより歌い継が

    れた第6節というものもあり、そこでは「God bless the Prince, Charlie」となっ

    ていたという。少なくともこの時までは「神に救われるべき英国国王」は、

    いまだ決していなかったのである。

    1745年 10月 15日の 「The Gentleman’s Magazine」 に掲載された楽譜