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INVOCARE 『告白』序章I. i, 1 における 荒井洋ーは「 アウグスティヌスにおける呼ぶ, 呼びかける, 呼び求める」 ( 19 92年) 1)において, INVO C A RE のレクシコグラフ イカルな研究をおこない, それがたんに, 呼ぶでなく, 呼びかけると呼び求めるの両面を含むことをあ きらかにした. 筆者はここでこの優れた成果を踏まえて, INVO C A R E のもつ, 現象学的な 意味, 一層厳密に言えば現象学と解釈学の交わる交点に接近を試 みたい. もとより端緒を探るだけのささやかなこころみに過ぎないのである ヵ: 我が国においても岡野昌維の研究に続いて, 荻野弘之, 加藤信朗らの水準 の高いモノグラフィーが近年あいついで発表され,翻訳においてもモニュメ ンタルな 意義をになう山田晶のあとを受けて, 宮谷宣史の労作『告白・ 上』 が刊行され, 活況を呈している. 筆者もさきに論じたのであるが, これら諸 賢の成果に学び, アウグスティヌスの r e tr a ct a tioのひそみにならって 再検討 しなければならないわ. われわ れの考察は『告白 』冒頭 (CONFESSIONES" 1, 1, 1; テキストは; CCSL, XXVII以下Cと略記)に限定される. 改訳と注解 第1段 主題の提示( 1行目ー2行目) 1 M a g nus es, do mi ne, e t la uda bi l i s ua ld e:

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  • INVOCARE

    一一『告白』序章I. i, 1 における一一

    加 藤 武

    荒井洋ーは「 アウグスティヌスにおける呼ぶ, 呼びかける, 呼び求める」

    ( 19 92年)1)において, INVOC AR E のレクシコグラフ イカルな研究をおこない,

    それがたんに, 呼ぶでなく, 呼びかけると呼び求めるの両面を含むことをあ

    きらかにした. 筆者はここでこの優れた成果を踏まえて, INVOC AR E のもつ,

    現象学的な 意味, 一層厳密に言えば現象学と解釈学の交わる交点に接近を試

    みたい. もとより端緒を探るだけのささやかなこころ みに過ぎないのである

    ヵ:

    我が国においても岡野昌維の研究に続いて, 荻野弘之, 加藤信朗らの水準

    の高いモノグラフィーが近年あいついで発表され,翻訳においても,モニュメ

    ンタルな 意義をになう山田晶のあとを受けて, 宮谷宣史の労作『告白・ 上』

    が刊行され, 活況を呈している. 筆者もさきに論じたのであるが, これら諸

    賢の成果に学び, アウグスティヌスの re tra cta tio のひそみにならって 再検討

    しなければならないわ.

    われわれの考察は『告白』冒頭(CONFESSIONES" 1, 1, 1; テキストは;

    CCSL, XXVII以下Cと略記)に限定される.

    改訳と注解

    第1段 主題の提示( 1行目ー2行目)

    1 Ma gnus es, d o mine, e t la uda bilis ua ld e:

  • 20 中i止思怨研究36号

    主 よ, あなたは大きく, tこたえるのに言葉を絶しています.

    2 ma gna u i rtus tua e t sa p ien tiae tuae non es t nume rus .

    あなたの力は大きく, あなたの知恵ははかることができません.

    この二行が主題である. この ua lde に注目しよう. それはたんに「大いに」

    ではない.Ps. 144, 3a について アウグスティヌスはいう3)

    どれだけのことが語れましょう. と事んな言葉を連ねたら よいのでしょ

    う. たった一つの ua lde になんという意味がこめられていることでしょ

    う. あなたも想像してみてください. しっかりと捉えることができない

    者が, どうして思い描くことができましょうか.

    さらにPs. 146, 11でも同様の意味で用いている4)

    われらの主は大いなるかな. 詩人は喜びに溢れました. それはし、くら

    喉を振り絞っても言い尽くせるものではなかったので、す. どうして言え

    なかったのか, わたしには分かりません.

    冒頭の二行においてすでに言語の限界状況に直面している. 客観的に数学

    的な大きさを測定して, その大きさをたたえているのではない. la uda bil is を

    「ほめ讃えるに値するJ と訳し, ["行為における当為の規定jであるとみる 加

    藤信朗(以下Kと略す)の指摘は的確である5) la uda re とはなにか. ma gnum

    (大きいもの)を ma gn i fico(大きいと言うこと)することである. それなの

    に現実には, くちごもり, 対象の大きさを正しく評価し, 的確に言明するこ

    とができない. それではこの評価と言明の言葉を失った言語主体とはなにか.

    かくて視線が対象から一転して主体自身に向かう. 私的, 個人的な主体( 個

    人) からより普遍的な人間の考察へと向かうには違いないが6), 賛美すると

    いう アクトを軸としていることに注目しなくてはな ら な い. ["主よ」と呼び

    かけるとき, それは虚しく虚空にこだまするのか. そうではない. 呼びかけ

    た主体=わたしはやがて Sa lus tua e go s u ばという力 強い応答を聴く. こ

    れを叫びと区別しなくてはならない. 叫びは一方通行でしかない. だが 声は

    相:庁の交流なのである. 声は|主体性の相互関係Jとして, 人称関係にお

  • INVOCARE

    いてのみ聴かれる7)

    第2段a 主体の反省( 3行目ー7行目)

    3 E t la udar e te u ul t ho mo, a li q ua por tio cr ea tur ae tuar,

    それなのになお人 はあなたをたたえようと願います. 人はあなたの

    造られたものの ほんの或る部分でしかないのに.

    4 e t ho mo cir cumf er ens mor ta li ta tem s uam,

    しかもひとは己の死ぬべき定めを身に帯びています.

    5 cir cumf er ens tes ti moni um pe cca ti s u i

    それもおのれの罪のしるしを帯びているのです.

    6 e t tes timoni um , q ui a s u perb is r esis tis:

    しかも高ぶるものをあなたが斥けられるというしるしを.

    7 e t tamen la udar e te u u l t ho mo, a li q ua po r tio cr ea tur ae tuae.

    それで、もなおひとはあなたを讃え ようと願います. あなたの造られ

    た世界の一部分で、しかないというのに.

    21

    3行目から 7行目まで は, 1 行目から 2行目にかけての主題の提示をうけ

    て, 賛美する主体自らをふりかえる. 反省する鏡に映るおのれの現実の姿は

    弱く惨めである. それ はいきおしに誇るますらおであるどころか, あわれな

    アダムの末商に ほかならない.

    1) ひとは死ぬベきさが( mor ta li tas)を身におびている.

    2) 何故死ぬのか. 罪の値は死だからである.

    3) 罪はたかぶりにきわまる.

    このパウロ的な人間学的反省8)が, 先に述べたように, ことばを発するこ

    とにかかわること, 賛美すること, 正しく述べるための基礎的な条件の反省

    であることを見逃しではならない

  • 22 flft吐息;tHlíJf'Jc 36 'i

    第2段b 賛美に向かつて( 8行目ー11行目)

    8 T u ex ci tas, u t la udar e te de lec te t ,

    あなたを ほめ讃えることをよろ こぶようにかきたてるの は, あなた

    ご自身なのです .

    9 q ui a f e ci s ti no s ad te

    というのはあなたがわれわれをあなたに向かつて造られたからです.

    10 e t in q ui e tum es t co r no s tr um ,

    でも, われわれのこころはざわめいてやみません.

    11 donec r e q ui esc at in t e .

    あなたに憩うにいたるまでは.

    あなたを讃えるように, というのでなく, あなたを讃えることがよろこび

    となるように. しかも そのようにかきたてるのは, あなたに ほかならない.

    強制でなく, 自発的である. しかも 意識の根源をかきたてる. 意識の面にお

    いてあくまで能動的であるが, 無 意識の深みにおいて受動的である9)

    9行自 はきわめて圧縮された文である. それどころか舌足らずであるよう

    にさえ見える. ところで ad te と はなにを 意味するのか, Kは, wあなたに

    向けて造られた』とは『言葉によって造られた』ということ以外でありうる

    だろうか. つまり『告白録』の神学は言葉の受肉による救済をテロスとする

    救済の神学, 神の像によって造られ, 子の形により化せられることによる救

    済の神学を述べているのではなかろうか」という10) この解釈は 意味すると

    ころ大きい. Kはこれまで主流であった目的論的な見方を斥ける. あなたに

    向けて, とは, 再びあなたに立ち帰ってゆくことを 意味する. 筆者はKに 賛

    成である.

    ではin q ui et um とはなにか. それは不安であるよりもざわめきである11)

    近代的実存主義的な「不安jや「めまL、Jや「幅吐jであるよりも, 激しい

    捻り声であり, どよもすしおざいである.in q ui e tum を agi飴と訳し た卜七

    世紀の碩学アルノー・ ダンディイの語感はたしかである. 彼は通訳としてで

  • INVOCARE 23

    なく, 修辞学者として翻訳にあたることを ほこりとしていた. それではざわ

    めく霊魂の波濡が凪を迎えるのはい つか. それは確実にはじまっている. し

    かし, ゆるやかに

    第1の凪はミラノの庭において( secur itas)

    第2の凪ははカッシキ アクムにおいて( r e qui es)

    第3の凪はオスティ アにおいて( gau diu m )

    まことに休息は終末のときにおとずれる. けれども, それは地上において

    先触れを経験する. この意味において, íあ な た のうちに憩いはじめるまで

    は, われらのこころは安息を知らなし、Jと訳 そうという 最近のラ・ ボナルデ

    イエールとジャック・ フォンテーヌによる共同提案は大胆であり, 新鮮であ

    る12)

    第3段 Priusへの聞い(12行自ー17行自)

    12 D a m i h i, d om ine, sc ir e et intelleger e,

    主 よ, どうぞわたしに知らせ, 得心させてください

    13 u tru m si t priu s inu oc ar e te an l au dar e t e

    あなたを呼び求めることと, あなたを讃えることと, いずれが 先で

    あるかを.

    14 et sci r e t e pr iu s si t an inu oc ar e t e.

    あなたを知ることと, あなたを呼び求めることと, いずれが 先であ

    るかを.

    15 sed qui s i nu oc at nesci ens te?

    でもあなたを知らないとしたら, だれがあなたを呼び求めるでしょ

    うか.

    16 Aliu d pr o al io potest inu oc ar e nesci ens .

    というのはあなたを知らなければ, なにかをあなたのかわりに呼び

    求めることがありうるからです.

  • 24 中世思想研究36り

    17 A n po tius i nuoc ari s, ut sci ari s?

    それとも知られるために, むしろ呼ばれるのでしょうか.

    この第3段は, 主とわたしの聞の二人称関係をのべて い る 13) la udar e に

    は「先行条件」がある. それが i nuoc ar e で あり sc ir e である. それではこ

    の二項のうちいずれが 先きであろうか. これを問うために, まず, inuoc ar e

    の用語法から入ろう. 荒井洋一(以下Aと略記 )はアウグスティヌスにおける

    「呼ぶ, 呼びかける, 呼び求める」の用語法を精査した. この報告によると

    in voc ar e と voc ar e には明らかな区別がある.

    1 in voc ar e は「あなたJへの方向性と「わたし」への方向性を含むけれ ど

    も, ìわたし」への方向性にアクセントが置かれている. だから, I呼び

    求める」という訳語をあてることがふさわしい.

    2 voc ar e には神が人を呼ぶとしづ 意味が見られる.

    〈ここで in voc ar e のすぐれて典型的な用例を掲げておこう. それはC, 1,

    2, 2 にみられる.

    わたしの信仰は, 神にして主なる方よ, わたしの神を どのようにし

    て呼びむかえるのでしょう. 神を呼ぶとき, たしかに, 神をわたし自

    身のうちに呼び込むのですから.

    E t quo mo do inuoc abo deum meum , deum et do m inum meum,

    quoni am u ti que i n me i ps um e um uob abo , c um inuoc abo e um?

    たしかに, 漠然と 声をかけるのでなく, あなたをわたしのうちに迎え入れ

    る. それがinuoc ar e なのである. だから, r呼び求める」とか, ì呼び込む」

    と訳すことができる. こちらから一方的にむこうへ向かうだけでなく, こち

    らからむこうに届いて, もう一度こちらにかえってくるブーメランの運動に

    似た軌跡を描く14) いったい呼ぶとは現象学的にいかなる 意味をも つのであ

    ろうか. スイスの精神分析学者ウージェーヌ・ミンコ フスキーは『精神のコ

    スモロジーへ� 21章においてI呼びかけ」の表題を掲げ, 興味深い省祭をこ

  • INVOCARE 25

    ころみている.

    「 それは空虚感のようなものであり, 自己から生じ, この自己をかなら

    ず補足するはずの 何ものかへ向けられる呼びかけ (l 'a ppel )の よ うなも

    のであるJ 15)

    この呼びかけは「周囲に一 つの世界を構成しなければ, われわれは一瞬た

    りとも存在し 得ない, という生の本質的な性格Jを構成している, という.

    世界 内存在から外にでて世界を所有しこれを構成 す る. しか も「こ の 呼 び

    かけ(l' a ppel )は生物にも物にも出来事にも向か」わない. これは呼びかけの

    現象学的な 志向性の考察に 最初の路を拓く.

    シモーヌ・ ヴェーユはジャン・ ベラン神父に宛てた書簡4において,

    時には, ( 主の祈りの)冒頭の数行を吟唱しただけで, す で に わたしの思

    考はわたしの肉体からもぎ取られ, 見通しも利かない空間の外側に運び去

    られることがありました. すると空間が聞けてくるのです. ……ときには

    また, この吟唱中などに, キリストがしたしく自ら現れたまうことがあり

    ました. ……身に迫る, はっきりした愛に満ち溢れた臨在を示されるので

    ありました16)

    と 特異な経験を述べている. これは受動的経験である.

    しかしこれも 志向性の一 つの働きではないだろうか. 彼女は「神への愛の

    ために学業を善用するための手紙」においてl 'at tent ion に つ い て 語っ て い

    る17)

    l 'a tt ent ion とは, 自分の思考を停止させ, 思考 を待機状態にし, 思考を

    虚しくして, 対象に入ってゆきやすい状態にする.

    l 'at ten tion は思考の放棄状態, 待機状態を言う ので, これを「注意力Jと

    訳すことは誤解を招く. このように見てくるとき, in vo ca re は単なる霊的な

    心理現象であるよりも, 志向性という 意識の働きなのである.

    アウグスティヌスは1 (匂rûν)をに置き換

    えjたと, 荻野弘之(以下Oと略記) はいう山. これ は ア ウグ ス ティヌスの

    好むズラシの手法である I呼ぶという行為は, 狭蝿なすことだまのみちる知

  • 26 中世思想研究36号

    性を欠いた言語神秘主義!のお そろしい森に 思わず深く入り込む危険に, い

    つもさらされている. 知のモメントがはたらかなければ, あるものを他のも

    のと 思い誤って呼ぶやも知れぬ. だから「哲学的な問L、Jをたでなくてはな

    らない. それではし、かなる問L、をたてるのであろうか. このために三 つの問

    いをたてる.

    1 どこか(ub i).まず, わたしの神はどこに入るのか. どのような場所が

    わたしのなかにあるのか, を問う.

    2 なにか( qu id). で、はわたしの神とはなにか. それはあなたで、ある.

    3 だれか( qui s). この間いは次の二 つの聞いによって構成される.

    A:あなたはわたしにとってなにか.

    B:わたしはあなたにとってなにか.

    1から3にいたる問いは二人称の場面において成立している. ではこれら

    三 つの聞いはいかなる応答を予想するのであろうか. それはく sa lu s tu a ego

    su m>でなくてなんであろうか 19)

    17行自. それとも知られるために, むしろ呼ばれるのでしょうか. ここで

    知られる, と, 呼び求められるが受け身になっている. 知るためにはまず呼

    び求めることが 先行しなければならない. ここは, 次のパラグラ フ(18行目

    �29行目まで) に移行するきわめて重要な転換の枢軸であって, ここで視点

    が変わる. これを宮谷宣史は

    それとも, あなたは, むしろ知られるためにこ そ, 呼び求められるので

    しょうか

    と訳す20) これは 思い切って明快な, 一 つの可能な優れた解釈のこころみ,

    ということができる. それはお そらく18行目を予想することによるのであろ

    う. しかし, これではいかにも一 つの限定された答えを 先取りすることにな

    らないであろうか. アウグスティヌスにおいて答えは, 読者の手にゆだねら

    れ, 聞かれている.

  • INVOCARE

    第4段 呼びかけの根拠(18行自ー29行目)

    a 公共の場(18行目-22行目)

    18 Q u om od o a ut em i nu oc ab unt , i n quem non c r ed ider unt?

    ところですでに信じていなかったものを, どうして人々は呼び求め

    るのでしょうか.

    19 A ut qu om od o c r ed unt si ne pr aedic ant e?

    それとも宣ベ伝える人がし、なかったら どのようにして人々は信じる

    のでしょうか.

    20 Et la udab unt d omi num qui r e qui r unt e um

    そうです. 主を探す人々は主を見いだし,

    21 Q uaer ent es eni m i nueni unt e um.

    たしかに探して, 人々は主を見いだし,

    22 et i nueni ent es la udab unt e um.

    見いだし つ つ, 人々は主を讃えることでしょう.

    27

    ここで二人称単数から一転して三人称複数が用いら れ る. 筆者 は か つ て

    「喚びかけの構 造Jを論じたとき, 迂潤にもここで複数に変わっていること

    と その意義に気づかずに, 肝心なポイントを見逃してしまった. それはなに

    か. 個人の意識の 内部を超越した歴史的な出来事, 個人を越えた複数の集団

    の場が, かえって, 呼ぶという アクトを呼び起こす源泉となるからである.

    呼ぶ よりも前に信ずるという ア グトが 先行する. 無前提なデカルト的コギト

    ーでなく, テキスト世界によって, 自己を豊かにする解釈学的な世界が 意識

    の現象学の背景をなしている21)

    b 二人称の場(23行目-29行目)

    23 Q uaer am te, d omi ne, i nu oc ans t e

    主よ, あなたを探求せんことを. あなたを呼んで.

  • 28 ,t'!U思想研究36 �}

    24 et inu ocem te cr edens in te :

    しかもあなたを信じであなたを呼ぼう.

    25 p raed icat us enim es nob is .

    というのはあなたがわたしたちに宣ベ伝えられたからです.

    26 Inu ocat te, d om ine, fides mea

    主よ, あなたの信仰が あなたを呼ぶのです.

    27 quam ded is ti m i h i,

    その信仰もあなたがくださったのです.

    28 q uam ins pir ast i m i h i

    この信仰をあなたはわたしに吹き込んで、くださいました.

    2 9 per h umani ta tem tu i , per m inis ter ium pr aed ica tor is t u i .

    あなたのみ子が人となることとあなたの宣教者の務めを通して.

    冒頭末尾のこの第4段, bについてKが「しかし, それ ( ) はいまこの段落の冒頭におかれる時, やや唐突の感を免れない.

    だが, それが言葉(Wマタイ福音書』七, 七)の想起であり, く主>の

    言葉の想起による自己の方法の想起であるという点に留意してお き た いJ 22)

    と指摘するのは正当である. それは解釈学を下敷きとする現象学的な省祭の

    特質と相倹っている.

    26行目から2 9行自にいたる 4行は, 呼び求めるアクトの原動力がどこから

    来るかをあきらかにする. それは信仰が与えられ吹き込まれることから来る.

    それはいかにしてであろうか. それは

    1 あなたが人となること

    2 あなたの宣教者の任務

    を通じてである. 1 はキリストの受肉, 2は使徒をはじめ と す る宣教者の群

    れをさす, と, グルセル, ド・ ヲブリオルの仮説をめぐる岡野呂雄の論文や,

    最近のKの大胆なパウロ仮説を考慮しつつも, 暫定的にいえるであろう23)

    しかし, 具体的にはテキスト世界からの呼びかけをさす. 1と 2は聖書とい

  • INVOCARE 29

    う「テキストに 内包された作者j に ほかならない. われわれ は このような作

    者と対話することによって呼びかけを聞いている.

    結 論

    われわれは inu oca re の 意味を問うてきた. そこで次の 結論を得る.

    1 inu oca re は 二人称関係が成立する場面においてのみ現象ずる.

    2 inu oca re は 志向性の はたらきである.

    3 inu oca re は 声である.

    4 inu oca re とし、う現象学的アグト は c rede re とし、う解釈学的なア グトに

    包まれ支えられている.

    われわれはさらに inu oc are とふかくかかわ り を もっ q uae re re の 意味を

    採らなければならないが, 将来の考察に 委ねよう.

    1) 荒井洋一, íアウグスティヌスにおけ る 呼ぶ・ 呼びか け る・ 呼び求めるj, K・ リ

    ー ゼ ン ブ ー バ ー, IU本耕平, 谷隆一郎, 荒井洋一編; �中肢におけ る 知と超越�,

    創文社, 71�90頁.

    2 ) 岡野呂雄, í序曲一『告白』 第一巻, 第一 章の研究一j, �西洋精神の源流と展開

    神 田!百夫博士喜寿祝賀論文集�, ベデラヴィウム会編, 1975年, 同, í不安と

    探求ーアウグスティヌスの人関理解j, 人文科学研究, キリスト教文化, IC U キ

    リスト教と文化研究所, 19 号, 1985年; 荻野弘之, íQUAERENS INVOCANS

    アウグスチヌスr告白録』冒頭におけ る探求の構図一」東京女子大学紀要「論集」

    40, 1. 1989年; 加藤信朗, í大いなるものーアウグスティヌス『告白録』冒頭箇

    所(1, 1, 1)逐語 解の試みj, 宗教と文化, 15, 聖心女子大学キリスト教丈化研

    究所. 1993年;拙論, í呼びかけの構造j 1989年初出, í 呼び、か けの場所j 1989年

    初出, �アウグスティヌスの 言 語 論�, 創文社所収, 1991年.

    3) En, in Ps. 144, 5, PL 37, 18 72; Q u an tu m di c tu ru m e ratフ q u ae ve rba

    q uaes i tu rus? Q uan ta m conce p ti one m conc Iusi t i n uno ualde? Cog ita q u an tu m

    v is . q uand o a u te m po tes t cog i tari , qu i c api non po tes t? James ]. O'Donne l l,

    Augustine's Confessions, v ol. 2 , Oxf o rd, 1992 p . 9 4) En. in Ps. 146. 11, PL 37, 1905; Magnus Dominus noster. Imple tus es t

  • 30 中世思想研究36号

    gaudio, eructavit i neffabi li ter: nescio quid dicere non valebat.

    5) 上 掲論文C 2 ], 6 頁.

    6) R.]. 0' Connell, Saint Augustine's Confessions. Massachusetts, 1969, pp.

    6-7 において, í純粋な個人史である より も , 典型を描い た も の」とみてい る と

    いう. この見方は従来の有力な傾向を代表してい る. cf. Erich Dingler, die

    Antholopologie Augustins, Marburg, 1948 , pp. 4 7 -48.

    7) 声 と叫びの違いについては他日考察を深め たい. 大方の 実存論的 アプローチに

    対して人称 存在論を筆者は提唱する. これについては拙著, Wアウグスティヌスの

    言 語 論j], 1991年, 創文社 , 86頁.

    8 ) í死の性」が 動物的可死性をいうのでなく恵を失った状態を さ すことについて,

    山田品の『アウグスティヌスj], 世界の名著, 中央公論社, 昭和4 3年 , 59 頁 , 注

    3に教え られ た. R. オッカネルは「死ぬべき身体」とい う 訳 語 を あてている.

    これは新プラ トン的解釈か らの一 つの可能な試みとして注目に値する. 前掲書,

    37頁.9 ) 筆者は浅薄にも 無意識面でなく, 意識面のレベルでだけ 考えてい た. この点に

    ついてアウグスティヌス研究会(1993年, 12月18 日. 平塚, 柴田邸)におけ る 荒

    井洋ーの報告íW告白』冒頭の構造と invocare について」に教え られ た.

    10) 加藤信朗, 前掲論文, 1 3-14頁

    11 ) 存在論的に無の中空に宙づ りになるめ まいの よ う な経験は, アウグスティヌス

    のものでない. 不安の実存者学を読み込むことは不適当である. この意味 で不安

    ( Unruhe)と落ち着きのなさ ( Unrast)を 区別し「不安を存在の根源的 な告知」

    としてとらえ る Maxsei n のこころみも , 所詮はキエルケゴールやノ、ィデガーの

    延長線にある. Anton Maxsein, Philosoρhia Cordis.das Wesen' der Persona.

    litiit bei Augustinus一, Salzburg, 1966, p. 49 . íというのは, 魂の内に落ちつ

    きのない一つの能力が あって」という 表現が Plotinos にある. Enn. 3, 7, 11,20

    -21 , 水地宗明 訳 , プロティノス全 集 , 第 2 巻, 405 頁. Plotin , Übersetzt von

    Werner Beierwaltes, Über Ewigkeit und Zeit, Frankfurt am Mein, 1967,

    pp. 126-1 2 7. 筆者にはむしろ, プロティノスの方が アウグスティヌスに近く思わ

    れ る . ‘ Unrast'でよいとすら忠う. Beierwaltes は ‘eine unruhige Kraft' と

    訳している . プロティノスの場合とヴヱグトルの違いが 根本的に両 者の間に横た

    わるけれど も , 荒井洋 ・は C. 13, 9, 10, 'Requies nostra locus noster.. .minus

    ordinata i nquieta sunt...'を典型的 な箇所として挙げ, 他の多くの箇所を 点検す

    る. 暫定的 な結論として, 下への方向性と上への方向性をふくむ. さ らに, amor

    と関係が ある , という.(前婦報告)イザベノレ ・ ボシェはハイデガーの不安と ア

    ウグスティヌスのそれとの間に共通性が ある ことを みとめ るが , その本質的な違

    いは, アウグスティヌスにお いては, 不安が 神に導くが , ハイデガーにお いては

  • INVOCARE 3 1

    そ うでない, という. 彼女 は著しい 用例 と し てC. 9- 10 を あ げる. Isabelle

    Bochet, Saint Augustin et le désir de Dieu, Paris, 1 98 2. pp. 11 8-1 23

    aerumnosis anfractibus...; laborabam curis; anxius と 言う様 にずたずたにな

    った姿 のな か に, 確か に anxius が登場する. しか しこの形容詞群全体 の織り成

    す模様 は, まさに, 不安以上 の, うめき, もがき, のたうちまわ る 姿 である . グ

    アルディーニか らマックスザイン にいたる実存論的 な不安概念 の研究史のスケッ

    チを金子晴男 が試みている. ad te, abs te, in te をめぐる同氏 の考察は,マック

    スザイン を批判し補正する ものとして興味深い, 金子晴勇,11アウグスティヌスの

    人間学�, 創文社, 昭和5 7年, 233-254 頁. Arnault d' Andillyの訳を掲 げておこ

    う. {que notre coeur est toujours agité jusqu' il trouve son repos en vous.}

    引用 中下線 は 筆 者.

    1 2) {Tu nous as fait pour toi, et notre coeur est sans repos, jusqu' à ce qu'

    il commence à reposer en toi.}, Quelques maîtres mots d'Augustin , dans

    Saint Augustin et la Bible, 1 986, Paris. p. 453 .

    13 ) í動詞 は , 代名詞 とともに, 人称の 範晴 に従う唯一の語類espèce de mots であ

    る. J と 優 れ た文法学 者エミール・ パンヴェニストはいう. í動詞 におけ る人称 関

    係の構造J, 11一般 言語学 の諸問題�, 河村正夫他共訳 , みすず書房, 1983 年, 203

    頁.

    14) 日本語で呼ぶ という 言葉 がどのように用 いられ るのか , まずそれを しらべよう.

    白川静, 11字訓I�, 平凡社によると, 大声を挙 げ て相手 の関心 を誘う こ と , 相手

    を求め て大声 を挙げて呼び寄せ ることで あ る と い う. こ れ は 呼ぶ が一方的にこ

    ちらか ら呼ぶ だけでなく , 相手 をこちらに引き寄せる と 言う 意味 でラテン 語の

    invocare と対応する. 白川 の引く 用例 を二三あ げると ,

    か むな びの いはせ のも りの よぶ こどり いたくななきそ わ がこ い まさ

    よなばりの いかひ のやまに ふすしか の つ まよぶ こ えをきくがとも しさ

    いずれ も万葉 集にみえ る. 11羅葡日辞書』によると invocare は ‘yobikomu' とあ

    り , vocare は‘yobu' ときちんと区別して訳 語を宛てている. これはさ すがであ

    る.

    15 ) Eugène Minkowski, Vers une Cosmologie, -Fragments Philosophiques-,

    1 967 , Paris, Aubier (1 93 6 , E dition Montaigne), 邦訳は『精神のコスモロジー

    へ�, 中村雄二郎, 松本小四郎, みすず書庖, 1983 年. ここでは邦訳による. 21

    章, 呼びか けの章「…… によって世界を 構 成する , 世界 を もっJ. 引用 は240-241

    頁 より. 呼びかけは, 人間の声が一般 に可能 している ものをわ れわ れに開示する

    であろうという.

    1 6) シモーヌ・ヴェイユ, 田辺保, 杉山毅訳 , 11神を待ちのぞ む�, 効草書房, 45}':(.

  • 32 中世思想研究36号

    Simone Weil, Attente de Dieu, Edition Fayard, 1966. p. 48.

    17) 前掲書, 94頁. 田辺 ・ 杉山訳では「注意力J. 原文は, ‘L'attention consiste à

    suspendre sa pensé, à laisser disponible, vide et pénétrab1e à l'objet. p. 9 2

    注意力という 訳 語 が適切でないことについて, アウグスチヌス研究会の際に柴田

    美々子にこ 。示唆を戴いた .

    18) 荻野弘之, 前掲論文, 9 頁 .

    19) sa1us tua ego sum. をここで「わたしはあなたの救いである 」と訳 すことは適

    当でない. Ií羅葡日辞書』は「息災」という 訳 語を あてて い る . 善いも のを いう

    のである. Augustinu s, En. in Ps. 3 4, s. 1, 1 2 .

    20) Ií告白上�, アウグスティヌス著作集 , 教文館, 1993年, 5 -1 , 21頁.

    21) í了解するとはテキスト の前で自己理解することで あ る . Jとポール・ リクール

    はいう . ポーノレ・ リグーノレ箸, 久米博訳 , í疎隔の解釈学的機能J, Ií解釈の革新�,

    白 水社, 1978年, 195 頁.

    2 2) 加藤信朗, 前掲論文, 19頁.

    2 3) 岡野昌雄, 前掲論文, 1 70 頁, 加藤信朗, 前掲論文, 2 ,1頁 注16. K の仮説は,

    ラ ・ ボナルディエールの文献学的 な成果を踏まえてたてられ た魅力 あるこ ころみ

    である . 筆者にとって, 了解するとは, テキスト の前で自己了解するにとどまら

    ない. それはテキスト の作者(著者と区別) と対話することである. とすれ ば,

    宣教者とは, パウロである 可能性は高い. すくなくとも , ある く顔〉が浮か んで

    いる. 筆者はか つて, アンプロ シ ウスを 想定したが, Ií告白』におけ る 位置全体

    を思うとき, むしろ, K の提唱する パウロ説に現在は傾いている. 作者との対話

    の問題については CR E D ER E を 主題として論じなけれ ばならないが, ここでは

    たちいらない.

    後記 1993年10月1 7日, アウグスティヌス研究会において発表したも のに手を 加え

    た.