スイス・valsにおける氾濫許容型治水整備の概報 -...

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スイス・Vals における氾濫許容型治水整備の概報 二井 昭佳 1 1 正会員 国士舘大学理工学部 准教授(〒 154-8514 東京都世田谷区世田谷 4-28-1E-mail: [email protected] 本稿は,現代の氾濫許容型治水整備の事例として,スイス・ヴァルスでの取り組みを対象とし,その経緯 や整備概要について報告するものである.洪水から村の中心部を防御するために,住居の少ないエリアで 氾濫を許容し,部分的な仮設堤防や,ピロティといった建物側の工夫による対応に加え,洪水時には跳ね 上げられる歩道橋や地場の石材を活用した胸壁の結果,治水と風景,また生活の利便性を両立しているこ とを報告する. キーワード : 氾濫許容型治水整備,まちづくり,洪水,仮設堤防,スイス,ヴァルス 1. はじめに 人間と河川の関わりを広い視野から追求する河川工学 者の大熊は,「自然を完全に押さえ込むのではなく,自然 と共存し,自然の害−水害も−ある程度我慢する.そのこ とにより自然の一部にしか過ぎない人間が,自然の中で 成長していくことになり,社会を形成する上でも,人間 のお互いの理解に役立てることになる」という基本認識 のもと,水害対応策の方針として,「①守るべきところは 重点的に徹底的に守る.②それ以外の地域では「ある程 度の洪水」までの氾濫は防ぎ,それを超えるような洪水 に対しては積極的に各地に遊水・氾濫させ,被害を可能 な限り分散・公平化する」ことを提案している.こうし た氾濫許容型治水の考え方は,末次など他の河川工学者 によっても提案されてきた. その後,1997 年に河川法が改正され,2001 年には,連 続堤による早期の治水対策が困難な場合に,輪中堤や宅 地嵩上げなどにより洪水から集落を防護する水防対策特 定河川事業が創設され,河川区域外への氾濫を前提とし た整備がすでに行われている. こうした氾濫許容型治水は,まちと川の新たなつなが りを構築できる可能性を持つ考え方であり,まちづくり や空間デザインの観点からも,それに向けた知見の蓄積 や議論を深めることが重要だと考える. そこで本報告では、仮設堤防や可動橋など複数のアイ ディアを組み合わせた氾濫許容型治水整備により,魅力 的なまちづくりが実施されているスイス・Vals の事例を 対象に,その経緯と整備概要を報告する. 2.スイス・Vals の概要 ヴァルス(Vals)は,スイスの東南部のグラウビュン デン州に属し,急峻な山々に挟まれた谷あいの美しい山 村である.スイスを代表するミネラルウォーター「VALSER」 や,美しい石英石のファルサー石(Valser Stein)で知ら れる.また建築家ピーター・ズントー氏(Peter Zumthor) によるスパ施設「テルメルバード・ヴァルス」により, 世界的にもその名を知られることになった.なお人口は 約 1000 人(2015 年時点)である. またヴァルスは,その立地状況から,雪崩や洪水など の自然災害に悩まされてきた村であり,特に 1868 年の 大洪水では,壊滅的な被害を受け,村全体でアメリカへ の移住を検討したほどであった.その後,1950 年代に上 流部にダムが建設されたが,近年でも 1987 年,1999 年, 2003 年,2008 年とたびたび大きな洪水が発生している. 図 -1 西側の山斜面から望むヴァルス村 写真手前の橋が Dorfbrücke,奥の広場が Dorfplatz

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Page 1: スイス・Valsにおける氾濫許容型治水整備の概報 - …library.jsce.or.jp/jsce/open/00897/2016/12-0137.pdfスイス・Valsにおける氾濫許容型治水整備の概報

スイス・Vals における氾濫許容型治水整備の概報

二井 昭佳 1

1正会員 国士舘大学理工学部 准教授(〒 154-8514 東京都世田谷区世田谷 4-28-1)E-mail: [email protected]

本稿は,現代の氾濫許容型治水整備の事例として,スイス・ヴァルスでの取り組みを対象とし,その経緯

や整備概要について報告するものである.洪水から村の中心部を防御するために,住居の少ないエリアで

氾濫を許容し,部分的な仮設堤防や,ピロティといった建物側の工夫による対応に加え,洪水時には跳ね

上げられる歩道橋や地場の石材を活用した胸壁の結果,治水と風景,また生活の利便性を両立しているこ

とを報告する.

 キーワード :氾濫許容型治水整備,まちづくり,洪水,仮設堤防,スイス,ヴァルス

 

1. はじめに

人間と河川の関わりを広い視野から追求する河川工学

者の大熊は,「自然を完全に押さえ込むのではなく,自然

と共存し,自然の害−水害も−ある程度我慢する.そのこ

とにより自然の一部にしか過ぎない人間が,自然の中で

成長していくことになり,社会を形成する上でも,人間

のお互いの理解に役立てることになる」という基本認識

のもと,水害対応策の方針として,「①守るべきところは

重点的に徹底的に守る.②それ以外の地域では「ある程

度の洪水」までの氾濫は防ぎ,それを超えるような洪水

に対しては積極的に各地に遊水・氾濫させ,被害を可能

な限り分散・公平化する」ことを提案している.こうし

た氾濫許容型治水の考え方は,末次など他の河川工学者

によっても提案されてきた.

その後,1997年に河川法が改正され,2001年には,連

続堤による早期の治水対策が困難な場合に,輪中堤や宅

地嵩上げなどにより洪水から集落を防護する水防対策特

定河川事業が創設され,河川区域外への氾濫を前提とし

た整備がすでに行われている.

こうした氾濫許容型治水は,まちと川の新たなつなが

りを構築できる可能性を持つ考え方であり,まちづくり

や空間デザインの観点からも,それに向けた知見の蓄積

や議論を深めることが重要だと考える.

そこで本報告では、仮設堤防や可動橋など複数のアイ

ディアを組み合わせた氾濫許容型治水整備により,魅力

的なまちづくりが実施されているスイス・Valsの事例を

対象に,その経緯と整備概要を報告する.

2.スイス・Vals の概要

ヴァルス(Vals)は,スイスの東南部のグラウビュン

デン州に属し,急峻な山々に挟まれた谷あいの美しい山

村である.スイスを代表するミネラルウォーター「VALSER」

や,美しい石英石のファルサー石(Valser Stein)で知ら

れる.また建築家ピーター・ズントー氏(Peter Zumthor)

によるスパ施設「テルメルバード・ヴァルス」により,

世界的にもその名を知られることになった.なお人口は

約1000人(2015年時点)である.

またヴァルスは,その立地状況から,雪崩や洪水など

の自然災害に悩まされてきた村であり,特に1868年の

大洪水では,壊滅的な被害を受け,村全体でアメリカへ

の移住を検討したほどであった.その後,1950年代に上

流部にダムが建設されたが,近年でも1987年,1999年,

2003年,2008年とたびたび大きな洪水が発生している.

図 -1 西側の山斜面から望むヴァルス村写真手前の橋が Dorfbrücke,奥の広場がDorfplatz

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3.氾濫許容型治水整備の概要

(1) 整備に関わる村の主要な場所紹介

整備概要の前に,整備に関わる村の主要な場所につい

て紹介する(図-2).村は,南から北に流れるヴァルサー

ライン川(Valser Rhein)に沿って細長く広がっているが,

集落の大半は東側に存在している.村の中心部は教会の

あるDorfplatzで,その広場に渡る橋がDorfbrückeである.

また上流でヴァルサーライン川と合流しているのがパイ

ラー川(Peilerbach)であり,合流付近には木橋が,その

上流にはPeilerbachbrückeがある.一方,Dorfbrückeの左

岸から北へ伸びる道がPost Strasseで,下流側にはピロ

ティ形式のHotel Rovanadaや,「Valser」の工場がある.

Post Strasse

Hotel Rovanada

Valser

Peilerbachbrücke

Peilerbach

木橋

Dorfplatz

Dorfbrücke

Valser Rhein

図 -2 整備に関わる村の主要地点

(2) 整備に至る簡単な経緯

ゲマインデ・ヴァルス(基礎自治体)は,1999年の大

洪水を受け,2000年に洪水対策検討のために,洪水ハザー

ドマップなど洪水リスクに関する調査を土木エンジニア

会社に依頼した.

その調査により,現況の流下能力100〜150m3/sに対し,

100年確率のピーク流量は250m3/sと算出された.その場

合の洪水ハザードマップの一部が図-2であり,浸水深は

不明であるが,村の中心部であるDorfplatzの周辺が甚大

な被害発生エリアになっている.また,この調査結果では,

ピーク流量が200m3/sまでなら,ヴァルサーライン川と村

の上流部のパイラー川(Peilerbach)の橋のリフトアップ,

直壁や側方への堤防構築などの流水断面の増加策によっ

て対応できることが示された.

この調査結果を受け,100年確率のピーク流量に対して

は,氾濫を含む複数の方法を組み合わせることで,村の

中心部には浸水被害を発生させない治水整備を行うこと

が目指されることになった .

さらに,この調査に付随して実施されたピーク流量

200m3/sの場合の概略計画が,2002年11月に地区住民に

提示され,2003年4月より調査を担当した会社に継続し

て計画作成が依頼された.同時にゲマインデ・ヴァルスは,

村長や建設部長,地区担当の営林職員,グラウビュンデ

ン州建設局の河川部長,同州の文化財オーガナイザーな

どからなる7名の自治体代表としての計画審査組織を立

ち上げた.彼らは,建築家ピーター・ズントー氏と橋梁

エンジニア,ヨーグ・コンツェット氏に設計アドバイザー

を依頼し,土木エンジニア会社と議論の上,設計を進めた.

その後,計画は2004年に確定し,上流部から工事が始

められた.その後,2009年度にかけて堤防整備と3つの

新しい橋梁が建設された.

(3) 氾濫許容型治水整備の全体概要

治水整備は,100年確率のピーク流量250m3/sよりも小

さいピーク流量200m3/sをベースに計画されている.その

ため100年確率のピーク流量時に,集落の大半が存在す

るパイラー川とヴァルサーライン川の右岸側で浸水しな

いように,ヴァルサーライン川の左岸で氾濫を許容する

整備となっている(図-4).

具体的には,パイラー川とヴァルサーライン川の右岸

側には,盛土あるいは胸壁と背面盛土による築堤がなさ

れている.その一方で,ヴァルサーライン川左岸のL1区

間には堤防はなく,右岸よりも1mほど低いため,ピーク

流量時には氾濫する.この区間には,道路面と同じ高さ

の住宅がいくつか存在するが,洪水時には仮設堤防によ

り浸水を防ぐ仕組みになっている.またDorfbrücke左岸

の直上流には道路を横断して仮設堤防を設置できる仕掛

けがあり,氾濫した水は,ここで本流に戻ることになり,

建物の並ぶPost Strasseは浸水しないようになっている.

さらにDorfbrückeのすぐ下流側には左岸にも建物があ

るため,150mほどは両岸とも同じ高さで築堤されている

(L3区間).しかし,さらに下流のL4区間では,河川断

面を大きくするように盛土により築堤されているものの,

高さは右岸よりも1m程度低く,ピーク流量200m3/sを越

えると氾濫するようになっている.なお氾濫した水は,

Hotel Rovanadaのピロティを抜けるように流れ,最終的に

はその下流の屈曲部付近の無堤部分で再び本流に戻る仕

組みである.図-3 100年確率における洪水ハザードマップ(村中心部)

Dorfplatz

N

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0m500m

100m200m

300m400m

凡例

:胸

壁:

盛土

:仮

設堤

防:

氾濫

エリ

ア(

推定

Post Strasse

工場

学校

(高

)住

宅(

高)

住宅

(高

住宅

住宅

倉庫

ホテ

倉庫

倉庫

L2区

間(

胸壁

)L4

区間

(盛

土+

河川

拡幅

)L1

区間

(無

堤+

仮設

堤防

)L3

区間

(盛

土+

胸壁

R3区

間(

盛土

+胸

壁区

間)

R2区

間(

盛土

区間

)R1

区間

(胸

壁区

間)

Hotel Rovanada1

階ピ

ロテ

氾濫

した

水が

ここ

で本

流に

戻る

Milchbrücke

可動

橋+

入口

締切

Peilerbachbrücke洪

水時

高欄

撤去

入口

締切 断

面①

木橋

(洪

水時

ジャ

ッキ

アッ

プ)

Dorfplatz

RovanadabrückeValser Rhein

Peilerbach

断面

断面

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面④

計画

断面

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S=1:400)断

面①

断面

断面

断面

H.W

.L (Q=

200m3/s)

H.W

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200m3/s)

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200m3/s)

H.W

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200m3/s)

図-4 ヴァルスにおける氾濫許容型治水整備の概要図

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(4) 各整備断面の特徴

a) ヴァルサーライン川右岸 R3 区間

胸壁と背面盛土による築堤区間である.胸壁は,ファ

ルサー石を積み重ねコンクリートで固定した構造であり,

地場材を活かした風景を生み出している.また,胸壁の

高さが1m以下になるように背面盛土の高さが調整されて

いるため,川を見ながら散歩できるようになっている.

b) ヴァルサーライン川左岸 L1 区間

氾濫を許容する無堤区間である.道路と同じ高さの住

宅の周りには,中心間3.3mピッチで仮設の柱が建て込

めるよう道路上に仕掛けがあり,洪水時には仮設的に堤

防を構築することで被害を防ぐ仕組みになっている.

c) ヴァルサーライン川左岸 L4 区間

河川断面を大きくするために堤外地側に引き堤してい

るが,右岸よりも堤防が低く,氾濫を許容する区間である.

氾濫エリアは基本的に牧草地であるが,Hotel Rovanada

ではピロティにより氾濫した水が通り抜けられるように

なっている.

d)Milchbrücke

左岸と同じ高さで橋梁が設置されているため,洪水時

には,橋を跳ね上げた上で,右岸入口を胸壁と同じ高さ

で締め切るようになっている.可動方式は,右岸側の橋

台側面の箱に桁と連結した錘のついたアームが格納する

ことで,人力で跳ね上げることができる構造になってい

る.なお設計はヨーグ・コンツェット氏である.

ちなみに他の橋梁でも,ジャッキアップや高欄を外す

ことで,洪水の影響を抑えるように工夫されている.

4. おわりに

本稿では,現代の氾濫許容型治水整備の事例として,

スイス・ヴァルスでの取り組みの概要を報告した.

洪水から村の中心部を防御するために,住居の少ない

エリアで氾濫を許容し,部分的な仮設堤防やピロティと

いった建物側の工夫による対応に加え,洪水時には跳ね

上げられる歩道橋や地場の石材を活用した胸壁により,

治水と風景,生活の利便性を両立させており素晴らしい

取り組みだと感じた.一方で,今回は住民との合意形成

や仮設堤防の具体的な構造や設置システムまでは,今回

はわからなかった.今後も継続して調査したい.

最後に筆者が管見した限りではあるが,スイスやドイ

ツの治水整備(Hochwasserscutz Projekt)では,単に洪水

への対応にとどまらず,まちと川を魅力的につなぐ観点

から行われているものが多いと感じる.その点で,まち

づくりの観点も含めて魅力的な水辺空間を生み出すには

治水システムのあり方にも踏み込むことが重要なのでは

ないかと感じている.

なお本研究は,JSPS科研費 15K18237の助成を受けて実

施したものである.

参考文献

1) 大熊孝:洪水と治水の歴史,平凡社,1988.

2)末次忠司ほか:氾濫許容型治水について,土木研究所資

料第3521号,建設省土木研究所都市河川研究室,1997.

3)本報告における検討経緯や整備内容については,ゲマ

インデ・ヴァルスが発行している広報紙「Varia- Das

Informationsblatt der Gemainde Vals」を参考にした.

図 -5 ヴァルサーライン川右岸 R3 区間 図 -7 ヴァルサーライン川左岸 L4 区間

図 -6 ヴァルサーライン川左岸 L1 区間 図 -8 Milchbrücke

仮設堤防のイメージ